だが、死ぬ前にまだ臣下として残された役目がいくつもあるはずだ。都田川にさらされた御首級(しるし)を奪い返し、清らかな場所へ隠して差し上げること。また、刑刀を振るった菊池半助を討ち取り、龍太郎や忍剣の霊を少しでもなぐさめることも友情というものだ。その上で、しばらくこらえて小太郎山の味方を集め、怨敵家康に一矢報いたのちに死ぬとしても、決して若君のお供に遅れはとるまい」
民部の考えは、どんな絶望の壁にぶつかっても決して揺らぐことはありませんでした。情熱に走りがちな蔦之助や小文治は、その言葉に反省し、励まされて、再び馬の背へと飛び乗りました。
そしてふと、夜色に染まった草原の果てを鞍の上から眺めると――はるかに白く光る都田川のほとりに、一筋の殺気と、形となって動く陣の気配を民部は感じ取りました。
「はてな? ……」
目を凝らして見つめていると、時折、顔をなでてくる微風に混じって、かすかな叫び声……矢が唸る音……呼子笛の合図……激しい剣劇の音が聞こえてきたのです。
二
「計略は図にあたったぞ!」
と呂宋兵衛が叫び、しめたと菊池半助が言ったところから見ると、今日都田川で行われた処刑は、家康が呂宋兵衛と半助に深く企ませた、一つの罠だったことは疑いようもありませんでした。
家康は、伊那丸主従が桑名から浜松へ入ってくるという呂宋兵衛の密告は聞いていたものの、なかなかその姿を見つけられずにいました。そこで、奉行所の牢屋にいる罪人の中から、年齢の近い僧侶と少年と六部(巡礼者)を選び出し、服装までそれらしく似せて、わざと大げさに斬り捨てたのです。つまり、偽の情報を流して本物を誘い出すための、一つの落とし穴を作ったのでした。
そして、その日の見物人の中に、本物の伊那丸や龍太郎が紛れ込んでくるに違いないと踏んでいました。そのため、群衆の中には百人の伊賀衆を変装させて紛れ込ませ、片っ端から顔を改めていたのです。
案の定、伊那丸主従は、自分たちが捕らえられてもいないのに今日処刑されるという噂を聞き、奇妙に感じて誘い出されました。偽の首を斬らせて、本物の伊那丸たちをあぶり出そうという企みは、敵の筋書き通りに進んだのです。
もちろん龍太郎も忍剣も、この不可解な事実がただの噂ではないとは感じていましたが、まさかそこまでの罠だとは気づきませんでした。
「あッ!」
と獄門台のそばを離れたときには、すでに敵の影が八方に満ちていました。
呂宋兵衛は、今夜こそ伊那丸を捕らえて家康に功を立てようと、銀の鞭を振るって、丹羽昌仙や早足の燕作、二、三十人の野武士たちを、獣使いのようにけしかけました。
菊池半助は側面から部下の変装組を指揮し、激励の声を張り上げました。
身軽で素早い伊賀者ばかりが百人も、小具足術の十手を手に、雨あられのように、入れかわり立ち代り、三人の手足にまとわりついてくる様子は、野武士の大刀よりもむしろ防ぎにくいものでした。
龍太郎の戒刀は、四方八方を斬って斬って、柄まで血に染まっていました。
一振りで風を呼び、一打ちで鮮血を吹き上がらせるその猛々しさは、加賀見忍剣の禅杖ならではでした。先ほど身代わりとなった自分の首に引導を渡し、都田川へ水葬礼を行った快侠僧の、なんとその猛闘ぶりの男らしいことか! 生命力のなんと強靭なことか!
見る間に、彼と龍太郎の犠牲となる敵の数は数え切れないほどになりました。
その二人にかばわれながら、伊那丸も小太刀を抜いて数人を斬りました。しかし、彼は敵陣を駆け回って暴れるようなことはしません。身を守り、襲いかかってくる者を倒すだけでした。
それは、平時に民部から教えられていたことでした。民部は伊那丸をただの勇士や猛夫には育てたくなかったのです。器が大きく、徳が豊かで、品位と天賦の才が調和した名将に育て上げたいと念じていました。伊那丸はそうして戦いの最後を見つめ、静かに覚悟の時を待っていたのです。
いくら追い払い、斬り伏せても、三方ヶ原の闇から湧き出る敵の数は少しも減る気配がありません。そして、都田川を背に、半刻(約一時間)あまりの苦戦を続けていると、不意に、思いがけない方角から「ワーッ」という怒声が上がりました。
「それッ、獄門の首を奪い返せ!」
「うぬ、伊那丸さまの敵の片割れめ!」
と、馬首を上げて躍り込んできた影。闇の中に、黒々とその姿が見えました。その先頭に乗りつけてきたのは、朱塗りの柄の槍を振るう巽小文治です。
「退け、退け! 邪魔するやつはこの槍を食らわせるぞ!」
と叫びながら、まっしぐらに獄門台の前まで駆け寄りましたが、
「やっ、御首級(しるし)がない!」
「なに、御首級がないだと? さては逃げた連中が素早くどこかへ隠したのだろう。それ、向こうの河原へ駆けていったやつらを引き止めてみろ!」
蔦之助は馬上からそこに立てられていた高札を引き抜いて振りかざし、ドッと十四、五間ほど駆け出しました。しかし、アッと思った瞬間、蔦之助はくぼ地の草かげから閃いた銀の鞭にはらわれ、馬もろともドーンともんどりを打って倒れてしまいました。
「やっ、どうした!」
小文治が駆けつけてみると、ひとりの怪人が蔦之助を組み伏せ、鋭い短刀をその胸板へ突き刺そうとしています。
「おのれ!」
突き出した小文治の槍。黒衣の影はその穂先をつかんで振り仰ぎました。
「あッ、呂宋兵衛!」
驚いた瞬間、小文治の馬も屏風倒れにぶっ倒れました。朱塗りの槍先をつかんでいた呂宋兵衛も、その勢いで体を宙に浮かします。
「得たり!」
と跳ね起きた蔦之助が、手に持っていた高札で黒衣の影に一撃をくらわせました。
「ぐわっ!」とすごい声を上げたのは呂宋兵衛です。肩をひどく打たれたのでした。そして彼は、疾風のごとく逃げ出しました。
追おうとすると横合いから、小文治の馬の腹を蹴った菊池半助が、槍をしごいて行く手を遮りました。
「よし、相手になろう」
と、二人の朱塗りの槍と黒樫の槍が絡み合います。せんせんと光を放ちながら戦う二人。それは小文治に任せて、蔦之助は逃げる呂宋兵衛を追いました。風を切り、同じ色の闇に紛れていく黒衣の速さに、たちまち見失って河原へ下りると、不意に引っ提げていた高札が、屋根板のように砕けて手から飛んでいきました。
「何奴!」と大刀を抜きます。
相手を見る間もなく、ブーンと唸りを上げて迫る鉄の禅杖。
火花が散ります。
「待てッ!」と、後ろで伊那丸が叫びました。
「蔦之助ではないか! 忍剣、待て!」
「おお、加賀見……いや、そちらにおいでなされるのは若君?」
蔦之助が呆気にとられて立ちすくんでいると、そこへ偶然の再会に驚きながら、小幡民部と龍太郎が連れ立って駆けつけてきました。小文治も相手の半助を振り切って、あちこちを探し回った末に、こちらの人の気配を見つけて走ってきました。
思いがけず落ち合った主従は、固く手を取り合って喜び合いました。
どうしてここへ? どうして生きているのか? 同じ問いが双方の口から飛び交いました。
三
嵐のような怒号がいくたびか繰り返され、月は三方ヶ原の東から西へと移り変わりました。
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