その少女の話で、前後の事情、裏切り者の毒水の詭計、咲耶子の働き、またそのために捕らわれの身となったことなど、すべて明らかに知ることができた。
ただ一つ、わからないのが竹童の行方。これには伊那丸もいたく心を痛めたが、いまは落人同様の境遇ゆえに、公然と触れを回して尋ねることもかなわず、いつしか旅路の蛍草に露がしとどに深くなる秋を知りながら、まだもってその消息の一片も知ることができない。
こうして、伊那丸主従は信濃の山を越えて善光寺平をめぐり、諏訪を越えて、また甲州路へ足を踏み入れた。しかし、甲府へ入るに先立って、民部の献策によって六人は三組に分かれることにした。
なぜかといえば、小太郎山奪取ののち、徳川家は大久保石見に命じて、いっそう伊那丸の追捕を厳命したからだ。いたるところに間者や捕手を伏せている模様が見えたからである。
伊那丸は小幡民部と。
山県蔦之助は加賀見忍剣と。
木隠龍太郎は巽小文治と。こうして三人ずつ二組に分かれて甲府の城下へ紛れ込み、大久保家の内情を探ったうえで、隙を見て館の中に捕らわれている咲耶子を救い出そうと申し合わせた。
しかし、躑躅ヶ崎の平城は厳重を極めているうえに、さすがは昔、信玄公自身が縄張りをした城郭だけあって、浅い外堀を越えて向こう側の石垣に取り付く隙もなかった。
そこで、一行六人の人々は、むなしく咲耶子の身を案じながら手をこまねいて弱っていたのだが、ここに思いがけない好機が近い日のうちに迫っていることを知った。
それは何かというと。
甲斐の東端、北武蔵との境にある御岳神社の紅葉の季節にあわせて、万樹が紅く燃えるような境内で毎年行われる兵学大講会に、今年は大久保石見守長安が家康の名代として出向くという噂である。
そこで小幡民部は、
「若君、この機を逃してはなりません」
と、伊那丸に一策を授けた。
それから間もなく、忍剣と蔦之助の組も、伊那丸も甲府表から姿を隠したため、相変わらず躑躅ヶ崎の様子をうかがっているのは、龍太郎と小文治の二人組になっていた。
その龍太郎は、御岳神社の兵学大講会に長安が出かける日を狙って咲耶子を救い出そうと考えているが、できることなら一日も早くと気持ちを焦らしていた。今日も城下をそれとなく歩いているうちに、思いがけず蛾次郎という者を見つけ、おとりの独楽をひょいと取り上げてきたのだ。
今にそれを奪い返しに追いかけてきたら、あの蛾次郎を独楽のように転がして、ひとつ探りを入れてやろうと手ぐすね引いて待っていた。しかし、うわべは心棒が緩んでいるように見えて、時折、大人の鼻を明かすような横着な独楽であり、こちらの腹を探っているのか、なかなかやってきそうにもない。
三
水のきれいな甲斐の国、とりわけ秋の水は銘刀の深みのある色に例えられている。
ほの暗い宵闇の底から、躑躅ヶ崎の堀の流れはだんだんと透明に研ぎ澄まされてきた。
目を凝らして覗き込むと、藻の中で眠る魚の影も、底の砂地に映っているかと思えるほどだ。
その清らかな流れは十五間ほどの幅がある。
堀の向こうはなまこ壁の築地塀で、橋のあるところには巨大な石門が見え、土手芝の上には巨松が踊るように枝を広げている。
松をすかしてチラチラと見えるいくつもの灯りは、館の高楼であり、武者長屋であり、矢倉の狭間であり、そして長安が歓楽にふける奥殿の輝きである。
二年前には、そこに武田一族と伊那四郎勝頼の座を照らす燭台があった。
十数年前には、そこに機山大居士信玄の威風にまたたく短檠(たんけい)が置かれていた。
今はどうだ。
流れる堀の水は春秋に関わりなく、今も玲瓏(れいろう)とした秋の宵の半月に澄んでいるが、人の手に灯される灯火と、注がれる油は自ずから転変している。
物思いにふける秋の夜。
龍太郎は何気なくそこに目を向けて、さっと露を降らす堀端の柳に背筋を寒くさせたが、その時、ふと初めて一人の人影が向こう側にいることに気がついた。
どこの百姓の女房であろうか、櫛巻にしたほつれ毛を涙に濡らして、両袖を顔に当てたまま堀に向かってさめざめと泣いている様子……。
月明かりを避けているが、やつれた姿は影でもわかる。
年は三十五、六。質朴らしい木綿の着物で、たくさんの子供を産んだ女と見えて、大きな乳が着物の前を膨らませている。
そして裾の方には、女でも山国の者は穿く「もんぺ」という盲目縞の足ごしらえをしており、かかとが切れた藁草履が、いっそうこの女の人の境遇をいたいたしく感じさせていた。
「おや?」
と、小文治は直感的にハネ上がった。
周囲のすべての空気が、この女がいまにも堀へ身を投げようとしていることを告げていたからである。
案の定、女は泣き濡れた目で躑躅ヶ館を恨めしげに睨んでいたかと思うと、また悲しげな声で、堀の底へ夫の名と娘の名らしい名前を呼び続けた。
そして「あっ」と思う間に、手を合わせて月光の水へ身を躍らせようとした。
「――待てッ」
龍太郎は飛ぶ鳥のように駆け出し、女の体を後ろから抱き止めた。
女は何か口走りながら、その瞬間にワッと柳の木の根元へ泣き崩れてしまった。
「……見受けるところ、夫もあろうし、幾人かの子供もあろう人妻ではないか。なぜそんな短気なことをする。苦しい事情があろうにもせよ、浅慮千万……」
と、たしなめるように強く叱った。
返事はない。
しゅく、しゅくと泣く声ばかりが、二人の足元に訴えていた。
だが、やがてようやく事情を聞き出すと、この女房が死ぬ気になったことを、二人はもっともだと思わざるを得なかった。
「ご親切に、ありがとうございます。わたしは西山梨在の戸狩村にいた、勘蔵という水晶掘りの女房でお時というものでございます」「はあ、子供も五人おりましたが、そのうち三人は亡くなりました。残った男の子のひとりは、まだ小さいうちに伊勢参りへ行った途中でさらわれてしまい、たったひとり残っていた娘は……その娘は……」
女は堀を指さすと、また激しく泣きじゃくりました。
ちょうどこの夏、伊部熊蔵が躑躅ヶ崎(つつじがさき)へ鉱山掘りたちを勢ぞろいさせて小太郎山へ出かけようとした、その日のことでした。信玄公の石碑へ香華を供えて拝んでいたひとりの百姓が、城内へ引きずり込まれ、若侍たちの無慈悲な手によって捕らえられたのです。
それを助けようと泣きながら城内へついていった娘と、その百姓は、ちょうど酒宴の真っ最中だった長安の気まぐれな娯楽として、冷酷にも手討ちにされてしまいました。その死骸が投げ捨てられたと聞くこの堀へ、今まさに身を投げようとした女は、そのときに殺された百姓風の水晶掘り・勘蔵の女房だったのでした。
たったひとりの娘と夫を無慈悲な領主に殺されたお時は、少し心を病んでしまい、戸狩村からあてもなくさまよい出ていたのです。しかし、こうして命を救われると、彼女はまた悲しみに打ち震えて泣き崩れるのでした。
「憎むべき長安め!」
小文治は、この悲劇を他人事とは思えませんでした。
「泣くな、泣くな」
龍太郎は女の背中をなでながら慰めました。
「泣いたところで、死んだ夫も娘も返りはしない。
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