それよりは、お前が伊勢参りの道中でさらわれたという、末の男の子を捜し出して、その子を頼りに暮らすのがよい」
「はい……ですが旦那さま、そんなことは、とても望めないことなのでございます」
「いや、世の中には十年ぶり、二十年ぶりなどで母子が再会したという話も珍しくはない。一心に捜せばきっとわかるはずだ。それに、何かその子に目印でもあれば、なお手がかりとなって、人から教えてもらえる機会も増えるだろう」
「ところが、百姓の悲しさで、これといった証拠や印になるようなものもございません。ただ……そうでございますね……思い出してみると、その子は小さい時から癇(かん)持ちでございましたので、背骨の七つ目の節に、お諏訪さまの禁厭灸(まじないきゅう)をすえてございます。あの大げさな、一ツ灸で他国にはない灸ですから、目印といえばそれくらいのものでございます」
「そうか。諏訪神社の禁厭灸だな。よく覚えておいて、拙者たちも旅の間には心に留めておくようにしよう」
龍太郎が温情を込めて不遇な女をなぐさめると、小文治も一昨年の春のことを思い出していました。当時、浜名湖の漁師小屋にいた自分が、母の亡骸を葬る費用もなく、舟に乗せて湖水に水葬した時の悲しみを。そう考えると、まだ子を捜し求める母と、捜される子がいるというだけで、この女は幸せなのかもしれないと思えてきたのです。
二人は女にそうした気持ちを言い聞かせるように語りかけ、女の一途な死の決意を思いとどまらせました。やつれた女房は感謝の涙に濡れながら、堀端をすごすごと去っていきました。二人の慰めに励まされ、「これからは、まだ四つだった時に伊勢参りの道中で離れ離れになった末の子を捜し出すことを楽しみに生きます」と誓うように首を垂れて言い残したのです。
「世の中、いろいろあるものだな……」
後ろ姿を見送りながら、二人の勇士は潤んだ瞳を見合わせました。
すると突然、後ろから忘れていた蛾次郎の声がして、そこへ駆け寄ってくるなり、
「おい、独楽(こま)泥棒! 独楽を返せ!」
と、とんでもない鼻息で、腕まくりをして詰め寄ってきたのです。
ああ、やっぱりこいつは少し足りないのだな。
小文治はそう思って苦笑しました。
「盲目、蛇に怖じず」とはこのことでしょう。人もあろうに、剣の達人である龍太郎と、血色の槍を手にして向かうところ敵なしの小文治の前に立って、泥棒呼ばわりをし、腕まくりをするなど、憎むべき価値すらない滑稽な振る舞いです。
「蛾次か」
待っていたかのように龍太郎がヌッと立ち上がると、蛾次郎は逃げ腰になりながら、
「ど、泥棒、泥棒! こ、こ、独楽を返せ。独楽を返せ!」
と、どもりながら手を出し、また引っ込めるという動作を繰り返しました。
馬糧小屋(ばりょうごや)の奇遇
一
「……おまえは蛾次郎、この独楽がほしいというのか」
龍太郎がこう言って懐から独楽を取り出して見せると、蛾次郎は飛びつきそうな目つきで、
「ほしいやい! 返せッ!」
と、打って響くような泣き声でののしりました。
「返してあげよう」
「か、か、返せッ!」
「その代わりに、少しわしの尋ねることに答えてもらいたい。そうしたら独楽も返そう。おまえの望むことには何なりと応じてやろう。どうだ、蛾次郎」
「ふうん……」
そこで蛾次郎の半信半疑な様子が、やおら腕組みに変わり、きょろきょろと落ち着かない目で小文治と龍太郎の顔色を読み回し始めました。
「じゃあ……」
と相好を崩しかけましたが、また急に鋭い目つきに戻り、首を振るようにして言いました。
「あかをいえ! 誰が、くそ、そんなうまい策にだまされやしねえぞ!」「いいや! 返さなけりゃ待っていろ、代官陣屋へ行って、お前たちのことをみんな告げ口してやるから!」
蛾次郎にしては、悔し紛れについ口を滑らせてしまった言葉だったかもしれないが、これには小文治がハッと驚いた。
この甲府の近くに自分たちが入り込んでいることを、万が一にも躑躅ヶ崎(つつじがさき)を治める代官陣屋などに密告でもされた日には、それこそ三手に分かれて行動している伊那丸や仲間たちにとって大変な大事件になってしまう。
「待てッ!」
と、小文治も少しあわて気味に、地面に立てていた朱塗りの柄(え)の槍を片手で思いきり伸ばし、蛾次郎の脇腹へと突き出した。
「わっ!」
と、蛾次郎の短い悲鳴が上がった。
足払いをかけられたように横さまに、ドスンと、でんぐり返るようにして倒れ込む。
そして、芋虫のように丸まったまま、再び起きあがろうともしない様子だった。
しかし、あいつの体に触れた朱柄の先は、とがった穂先ではなく石突(いしづき)の方だったから、片手で突いたぐらいの力でそう簡単に死んでしまうはずがない。それに、よほど急所にでも当たらない限り、こんなふうに気絶してしまうのは少しおかしかった。
様子を見てみると、なるほど、そういうことか。
(どうか勘弁してくれよ)というわけだ。
ひっくり返った蛾次郎は、ポカンと目を開けたまま、心の中で自分に言い聞かせていた。
(大丈夫だ、大丈夫だ。死にやしない、生きているぞおれは、たしかに生きている。その証拠には星が見える。月だてはっきり見えるじゃないか。だが今は、死んだかと思ったぞ。あぶねえあぶねえ、うっかり起き上がろうものなら、今度はあの光ったほう(槍の穂先)で、グサリと本当にやられてしまうかもしれない)
こう考えて、死んだふりをしているらしい。
いや、本当のところは腰の骨でも違えてしまって、急に起きあがりたくても起きられないでいるのかもしれなかった。
「まったく手におえない小僧でございますな」
と、堀端の方で小文治がささやいた声さえも、蛾次郎の耳にはハッキリと聞こえていた。
その会話を聞いて、自分に対してそれほど深い殺意があるわけではないと悟ると、蛾次郎は初めてホッと胸を撫で下ろし、タカをくくって、
「ちぇっ、おどかすなよな」
と、痛む腰をさすりながら、そろそろと首を持ち上げはじめたのだった。
一
迷子札のような通行手形を番士に見せて、その夜、霜にあたったキリギリスのように片足をひきずりながら、蛾次郎がよろよろと躑躅ヶ崎の城内にある長屋へと帰ってきたのは、もうすっかり夜が更けた頃だった。
城内の長屋というのは、館に詰めている常備の侍や雑兵たちの住まいで、たとえ重臣であっても、いざ戦乱が起きて籠城戦となれば、城下の屋敷から妻子や身内をすべてここに引き上げさせ、一つの城郭を一つの大きな家族として、何年でも敵と対峙することになる場所だった。
小太郎山から流れるようにやってきた鼻かけ卜斎(ぼくさい)は、その長屋の一軒を手に入れ、今では大久保石見守(おおくぼいかみのかみ)の家来ともつかず、躑躅ヶ崎の客分ともつかないような立場で、のんびりと暮らしていたのである。
(もう寝た時間だろうか……)
それは、あの卜斎を心の底から恐れる蛾次郎が、足をひきずりながら道々考え続け、神様に祈るほどに「そうであってくれ!」と願っていたことだったが、長屋の明かりが見えてくると同時に、また、
(もし起きていたりしたら大変だぞ……!)
と、意気地なく足がすくんでしまうのだった。
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