初級翻訳・神州天馬侠 第155話

吉川 英治

「うーむ、遅かったか!」
熊蔵は、余一が泣いているのが馬鹿らしくなってきました。
「仕方がない。この上は殿にありのままを報告して、少しでも早く、他へ手配をつけるのが肝心だ」
一同が手ぶらで屋根から降りようとした、その時でした。
下に待機していた老臣・伊東十兵衛が、何か聞き取れないほどの絶叫を上げたかと思うと、二層目の欄間から手槍をつかんだまま仰向けに、
「伊部ッ!」
と救いを求めながら、二層目の屋根へ、斜めに斬り落とされていったのです。
「やッ、ご家老が!」
「咲耶子を助け出そうとして、とうとうここまで曲者がなだれ込んできたか。おい、何をぼんやりしている! 降りろ、降りろ!」
降りること自体は難しくありませんでした。擬宝珠に玉縄を結びつけ、ズルズルとつながって降りていきます。
その時、一閃。
横から白刃の光がその玉縄を下から斬り上げたかと思うと、ぶら下がっていた四、五人が、束になって真っ逆さまに下へ落ちていきました。
「わあッ!」
という悲鳴が上がります。人の惨死を目の当たりにすると、人間は忘れていた凶暴な血がたぎり出すものです。普段は臆病な者でも、こうなると勇士に変わるものです。
伊部熊蔵はカッと怒り、中断された縄の端から千本廂の鎖にすがって、ダッと源氏の間へ飛び込みました。
見るとそこには、今夜、躑躅ヶ崎の館へ斬り込んできた覆面の少女とはまるで違った、二人の姿がチラリと見えました。
一方は白い行衣(ぎょうい)を着て、手に戒刀とおぼしき直刃の刀を引っ提げた男。もう一人は、朱柄の九尺槍を構えて、射るような鋭い目をした若者です。
「いないぞ、ここには」
「さっきまで狛笛の音がしていたのに」
「では、逃げたのであろう」
「いや、いくら咲耶子でも、この堅固な守りを破っては逃げられまい」
「それならここにいそうなものだが」
「不思議だなあ」
「奥の部屋には?」
「次の間はない!」
「ではどこかに隠れ場所でも? ……」
早口にこう言い交わしながら、室内の物を退けて、しきりに誰かを探している様子です。
もちろんそれは、手組の筏に乗って濠を越え、館の騒動に乗じてここへ潜入してきた、木隠龍太郎と巽小文治の二人です。
「おのれッ!」
そこに思わぬ敵を見つけた伊部熊蔵は、いきなり小文治の背中を目がけて、後先考えずに刃を振るいました。
「うむッ」
と言うや否や、胸元へ石火のごとく伸びてきた朱柄の槍の石突きが、熊蔵の大刀が相手に届くよりも早く、彼の肋骨の下を強打しました。
「残念だが、咲耶子の姿が見当たらなければ仕方がない」「これ以上のことは、どうせのついでだ。大久保長安の寝所を見つけ出し、あいつの首を手土産にして引き揚げるとしよう」

欄干のまわりに影を落としながら、ただワアワアと騒ぎ立てている若侍たちを冷ややかに見下ろした二人は、源氏閣から桜雲台の本殿へと戻りました。するとそこへ、大勢の武士たちに追い詰められてきた、髪を乱した子供の姿がありました。

「やッ、竹童!」

咲耶子に会えなかった失望は、このうれしさで吹き飛びました。朱柄の槍と、鍔(つば)のない戒刀(かいとう)を携えた二人は、なんのためらいもなく、敵が渦巻く中へと飛び込んでいったのです。

愛の旅人

一

美しい明け方の雲が、東の空を染め始めました。
秋の霜が降りた山国の朝は、都の冬よりもまだ冷え込んでいます。
吐く息が、鼻の先で凍りついてしまいそうなほどです。

「おはよう」

地蔵行者の菊村宮内は、長屋の釣瓶井戸で、足軽たちと一緒に口をすすいでいました。
「昨夜は、まことにひどい騒動でございましたな。さぞかし皆さんもお疲れでしょう」
足軽たちに話しかけても、誰もウンとも返事をしません。
彼らの眼差しには、まだ夜が明ける前の異常な緊張感が残っているようです。顔をしかめてすねの傷を洗っている者や、水を汲んでいく者、たわしで洗い物をする者などがいて、井戸端は混み合っていました。

宮内は早々にそこを離れると、
「とにかく、大事にならなくて幸せだった」
長屋の屋根の向こうに、まだ黄色く立ち昇っている馬糧小屋の煙を眺めながら、独り言をつぶやきました。

「あッ、神主さん――。竹生島の神主さん!」

突然、宮内の足を止める者がいました。
誰かと思って横を見ると、御殿の修築に使う大石がたくさん積んである隙間から、元気のない蛾次郎の顔がチラリと見えました。

「おや、お前は?」と伸び上がって覗き込むと、
「お地蔵さま、後生ですから助けてください」
「後生だなんて、何がそんなに困っているんだ。出ておいで、ここへ」
「それが、出られないんで困っているんです」
「なんだ、縛り付けられているのか?」
「ええ、昨夜お館へ乱入したあの狼藉者たちのせいで縛られて、とうとうここで夜を明かしてしまったんです」
「おやおや、それはひどいお仕置きを食ったな」

宮内は人の良さそうな笑みを浮かべ、石置き場に縛られている蛾次郎の縄目を解いてやりました。体が自由になった途端、蛾次郎は礼の言葉もそこそこに、いきなり向こうの馬糧小屋の焼け跡へすっ飛んでいきました。

なぜ飛んでいったのかと思えば、蛾次郎はまだカッカと残り火が赤く燃えている焼け跡にお尻を向けて、
「オオ寒、寒、寒、寒……ああ、あったけえ、あったけえ、あったけえ」
と、歯をガタガタと鳴らしながら、凍りきった体を温めて人心地を取り戻していたのです。

そこへひょっこりと、親方の鼻かけ卜斎が、桜雲台の方からもくもくと戻ってきました。
卜斎はジロリと蛾次郎の顔を見ましたが、特に声をかけることもなく、菊村宮内のいる火のそばへ寄りながら、
「さぞかし昨夜はびっくりなされたでしょう」
と話しかけてきました。

「驚きましたとも。火事かと思えば、すぐにあの乱入者たちの剣の音が聞こえてきてね。しかし、格別な被害もなかったようで、まずはお館にとっては、大難が小難で済んだというものでしょう」
「とんでもない。意外な被害が出ておるのですよ」
「ほう?」
「今、役人が詳細を書き上げているところですが、味方の討ち死にした者が二十四、五名、手負いは五十名を下らないとのことです。その上、ご老職の伊東十兵衛殿が源氏閣の上から袈裟斬り(けさがり)にされて真下へ落ち、鉱山目付の伊部熊蔵殿も悶絶していたようなありさまで……もっとも、これは命に別条はなく助かりましたが」
「ほう、それほどまでに! して、ここの主である大久保長安殿のご身分には、何事もなかったのですかな?」
「一時は曲者に追われて危ういところだったそうですが、寝所から壁を返した隠し間へ潜んで、やっと逃げ延びたという話です。その間に運よく夜が明けたので、曲者たちは濠を越えて、どこへともなく逃げ去ったそうで」
「で、相手方の死骸は?」
「それが不思議なことに、手負いや死んだ者もいたはずなのに、逃げる時に持ち去ったのか、一つも死骸が残っていないのです」
「それはそれは、心得のよい曲者たちだ。一体、彼らはどこの者なのです?」
「黒装束は皆、緋おどし谷にいた若い女子たち。源氏閣へ斬り込んだのは、武田伊那丸の身内である木隠と巽の二人だと後で分かりました。

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