初級翻訳・神州天馬侠 第168話

吉川 英治

それどころか、広い試合場の地面や人々の顔の上を、その巨大な影が太陽を遮るたびに通り魔のように横切っていたことさえ、全く知らずにいたのでした。
地上の人間が、ただ「あれよあれよ」と泡のように沸き立ち、どうしていいか分からず右往左往しているのに対し、今、まるで虫を捕らえたかのような大鷲は、鋭い嘴に木太刀をさらったまま、茶褐色の腹毛をのぞかせ、その場を去ろうともせず、高くも低くもならずに御岳の空を旋回し続けています。
時折、光の加減で、その真っ黒な翼の艶(つや)を射るような、金色の瞳まではっきりと見えました。
いや、それだけならまだよかったのです。ただそれだけの事実だったなら、これほどまでに地上の人々が肝を潰すことはなかったでしょう。

「あッ、帯が下がっている!」
「女の帯だ」
「赤い袖が見えるぞ」
「女が乗っているんだ……女が、女が乗っている!」
「ど、ど、どこに?」
「鷲の背中に――女が、女が乗っているぞ!」

人々は熱病に浮かされたように叫び合いました。狂ったように空を指差します。
その時でした。
押し合いへし合いする人波の間から、泳ぐように顔を出した鞍馬の竹童(ちくどう)が、忍剣(にんけん)や小文治(こぶんじ)といった仲間たちをも夢中で押し退けながら叫びました。
「あッ……た、大変だ!」
「竹童ッ、危ないぞッ!」
誰かが止めようとしましたが、竹童は突き飛ばして言いました。
「そんな場合じゃない、あれを見ろ! あれは咲耶子(さやこ)だ!」
「えッ、咲耶子だって?」
「咲耶さんです、咲耶さんです! 躑躅ヶ崎(つつじがさき)の源氏閣からどこかへ逃げた咲耶子さんに違いない!」
「うむ、そう言われてみれば女らしい影が見える」
木隠(こがくれ)や小幡民部(おばたみんぶ)も、その大鷲には見覚えがありましたが、どうして咲耶子が空から舞い降りてきたのか、ただただ不思議な思いに打たれるばかりでした。

「竹童、騒ぐんじゃない」
伊那丸(いなまる)は、周囲をはばかってそう言いました。
しかし竹童の耳には、もうその声も届いていませんでした。彼はいつの間にか抱きとめていた蔦之助(つたのすけ)の手を振りほどき、
「クロ! クロ! 咲耶子さん――」
と、我を忘れて喧騒の中を走り出しました。

ところが、ここにもう一人。
同じように「クロ」の名を呼び、右往左往に乱れた試合場の中を駆け巡りながら、手を振っている少年がいました。
一人は、先ほど村上賛之丞(むらかみさんのじょう)と城の造りについて問答をして、見事に鼻をへこまされた「鼻かけ卜斎(ぼくさい)」のお供、すなわち泣き虫の蛾次郎(がじろう)です。
「やーい、やーい!」
蛾次は夢中でした。大騒ぎです。
クロは彼にとっても、かけがえのない親友なのです。どこに隠れていたのか、彼はクロを見るや否や目の色を変え、無我夢中で試合場に飛び出しました。
「俺のクロだ、俺のクロだ! やーい、ちくしょう、やーいッ、クロ!」
届くはずもない空に向かって飛び跳ね、一人で暴れまわっています。

すると同じように、
「あれ、あれ、あれ。あの鷲を返せ! あの鷲を返せ!」
と、訴えるように、泣くように、狂気になって叫んでいたのは、先ほど躑躅ヶ崎の館、あの源氏閣の上で、咲耶子のためにその鷲を奪われた浜松城の小さなお使番、星川余一(ほしかわよいち)でした。
それを見るや否や、葵の紋の幔幕(まんまく)を張り巡らせた徳川家の控え所の中でも、
「おお、余一が騒いでいるぞ」
「余一が失くしたクロはあれか」
「あの鷲を逃がすなッ!」
と、雀の群れのように叫び合っています。
「それッ!」
と、葵の幕を切り落とし、巣を破られた蜂のように、我先にと飛び出してきたのは、はるばる浜松から見物に来ていた華やかな一隊でした。
家康の孫、徳川万千代(とくがわまんちよ)をガキ大将と仰ぐ、お小姓とんぼ組の面々です。

二

起きた出来事。ここの騒動。
それらはすべて、大鷲が出現した瞬間の、ほんの瞬きする間の出来事でしかありません。
もはや兵法大講会は、この意外な椿事(ちんじ)のせいで、その神聖と厳粛さをかき乱され、収拾がつかない状態に陥っていました。
奉行が無能だなどと、決して言ってはなりません。目付役人たちが右往左往して慌てふためいているのを責めるのは、無理というものでしょう。
群衆の心理がこれほどまでに落ち着きを失ってしまった以上、誰かが急にそれをなだめることなど、到底できるはずもなかったからです。
事態を深く案じる者たちは、ただただ不安を募らせていました。
「この騒ぎ、一体どうなってしまうのだろうか」と。

そんな中、泉州堺の住人であり、一火流の鉄砲や又助流の砲術で畿内に名を知られる火術家、鐘巻一火(かねまき いっか)という男がいました。
彼は一門の門弟四、五十人を引き連れ、同じく御岳山上の端に「短銃を交差させた定紋」を染め抜いた幕を張り巡らせて陣取り、火術の試合を申し出ていた一団でした。しかし、大鷲が現れたこの騒ぎの中、そこだけは申し合わせたように静まり返っていました。
「これほどの好機が、またとあるだろうか。鐘巻一火の秘技を世の人々に知らしめるのは今だ」
一火は幕の中に立ち、新渡来の又助式鉄砲をキッと強く握りしめました。
「先生、火縄を!」
門弟の一人がその心を読み取り、すぐに火縄を吹いて手渡しました。
一火の目は、宙を舞う獲物に吸い寄せられています。
今だ――。
鷲はふもとの多摩川へ、水を飲みにでも降りるかのように斜めに下がりかけたところでした。
しかし、翼を翻すと一瞬にして、また目の前まで近づいてきます。
その羽風の恐ろしいこと! 目で見ている分には、泉を泳ぐ魚の影のように、青い空をゆったりと舞っているようにしか見えません。ところが、サーッと頭上に近づいてきたかと思うと、あちこちの鯨幕が一斉に風をはらみ、地面の落ち葉が逆さまに吹き上げられ、黒く、赤く、卍を描くような旋風となって暴れ狂ったのです。
「うぬっ、奇妙な女め!」
鐘巻一火の腕に、ピタッと鉄砲の筒が据わりました。
ドーン!
御岳の岩山を揺るがすような轟音が響き渡りました。
全山の人々にとっても、寝耳に水のような驚きだったことでしょう。
ゴーッと遠い音波を響かせ、峰や谷々の木霊(こだま)が返ってきたあと、再び山崩れにも似た喊声(かんせい)がどよめきました。
見よ。
鷲は、真っ逆さまに墜ちてきたのです。
――美しい女の帯を、尾のように引きずりながら。

文殊菩薩とほか四菩薩

一

鐘巻一火の鉄砲は、狙いを外しませんでした。
どこかに当たったに違いありません。その証拠に、狂った大鷲は地上十四、五尺の高さまで落ちてきました。
しかし、突然そこでクルッと巨大な体を回したかと思うと、人々が驚きの声を上げるのを背に、鷲は天目山の方角へ向かって、弩(いしゆみ)から放たれた鉄の矢のように一直線に飛んでいってしまいました。
ところが、人々の目はその行方よりも、突然試合場の南の隅に「それっ」となだれを打って集まった人影へ、何事かと驚きの目を向けました。
「お医者様! お医者様はいないか!」
そんな騒ぐ声が聞こえます。

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