近くの控え所に詰めていた典医(お抱えの医師)たちは、何が何だか分からないまま、しきりに呼ばれる声に薬箱を抱えて人だかりの中へと駆けつけました。
しかし、その典医たちが到着するよりも早く、鐘巻一火が門下の壮士一隊を従えてそこへ飛び込んでいきました。
「ごめん、ごめん!」
口々にそう言いながら、一火をはじめ白袴姿の門下たちは、周囲の役人を押し分けて前へ進むと、地面に気を失って倒れていた美女の体を、あっという間に担ぎ上げました。そして自分たちの陣地へ電光石火の速さで引き返し、鉄砲を組み合わせた定紋の幕の中へ姿を消し、静まり返ってしまいました。
「おう――」
それを眺めていた竹童が、試合場の中央で飛び上がるように手を振ると、反対側にいた木隠、巽、加賀見、山県の四人が、矢来(やらい)の木戸口から一散にこちらへ駆け寄ってきました。
「竹童、今鷲から落ちたのは、間違いなく咲耶子ではないか?」
彼らは息を切らして言いました。
「間違いありません。咲耶さまです。――その咲耶さまが鉄砲に撃たれたから、鷲の方は怪我もなく逃げてしまったんです」
「えっ、鉄砲に撃たれたのか?」
「あの幕張りの中へ担ぎ込まれた侍の袴が、血で赤く染まっていましたから、間違いありません。龍太郎さま、早くあそこへ行って、咲耶さまを取り返してください!」
「そうか!」
「おお!」
そう言うと、忍剣は例の鉄杖を小脇に抱え、鐘巻一火の幕前へ向かって勢いよく駆け出していました。
これまで伊那丸の許しが出ないため、髀肉(ひにく)の嘆をかこちながら、じっと腕をさすっていた人々にとって、鎖を解かれた獅子のような勢いです。
竹童もあとに続いて駆け出しながら、口には出しませんが心の中でこう思っていました。
(さあ来い! おいらのおじさんたちの男らしさを見てくれ!)
そんな誇りが、どこかにあったのです。
すると、ほとんど同時のことでした。咲耶子を連れ去り、陣地へ引き上げた鐘巻一火を追って、大勢の人間が殺到しました。
大講会総奉行の大久保石見守長安、その家臣たち、目付役、介添役といった面々です。
彼らが一火の溜まり場へドカドカと押し入ろうとすると、中から姿を現した鐘巻一火本人と、屈強な門弟たちが陣幕の入り口に立ちふさがり、
「やあ狼藉者め、どこへ行く!」
と、両手を大きく広げて道を塞ぎました。
徳川家の重臣であり、甲州躑躅ヶ崎の城主、さらには大講会総奉行という肩書きを傘に着ている長安は、
「どこへ行こうと勝手であろう。身は総奉行の大久保石見守であるぞ」
と、言下に肩をそびやかして言い放ちました。
「黙れッ」
武術家気質の一火は、とどろくような雷声で言い放ちます。
「ここは鐘巻の陣地だ。鉄砲の紋を染め抜いたこの幕の中へ、無断で一歩たりとも踏み込んでみろ。渡来の短銃をもって応対するぞ!」
「聞き捨てならぬ暴言だな。用があるからこそ幕内へ入ろうとしているのだ。それは奉行の役権である。役儀の権限をもって通るのに、何の不思議があろう。どけ、どくのだ!」
「いや、奉行であろうが目付衆であろうが、試合のことならともかく、意味もなく我々の陣地を踏み荒らすことは許さん。用があるならそこで言え!」
「うむ……強いて通さんというのなら仕方がない。では、たった今奥へ運び込んだあの女を、こちらへ引き渡してもらいたい」
一火はそれを聞くとカラカラと笑い、
「総奉行たる貴殿が、不審なことを申されるものかな。大講会の空を飛び回り、試合の空気を乱す奇怪な女を、拙者が一火流の砲術をもって撃ち落とし、こうして衆人の騒ぎを鎮めたのだ。なぜその女を渡せなどという、見当違いな抗議を持ち込むのか。それよりも、少しでも早く次の試合の支度でも急ぐのが、貴殿の役目ではないかと思うが」
「そのような指図は受けん!」
石見守は額に青筋を立てて怒鳴りました。
「あの者は、源氏閣の上より逃亡し、その後行方知れずになっていた咲耶子という不敵な女、それどころか、浜松城へ突き出すことになっている罪人だ。渡さぬとあれば、徳川家の武威を示してでも連行するが、どうだ!」
言い終わるのを待たず、一火は激越に言い返しました。
「血迷うたか、石見守ッ! 汝、総奉行という重き役目にありながら、自ら大講会の約束を破るつもりか。この御岳三日のあいだは、兵を動かすな、血を流すな、仇国との戦火もやめよという掟の下に行われていることは、ここに集まる天下の武門、百姓町人もあまねく知るところ。それを、弓矢にかけても(力ずくでも)と申した今の一言、それは正気か! 脅しなのか! 見事に奪えるものなら武力をもって奪ってみろ!」
これはもっともな理屈でした。
石見守長安は、ハッと正気に返ったような顔色になりました。
そして自分の失言に気づいたのか、
「いや、鐘巻先生」
と、急に態度を改めて、
「不肖、奉行の身でありながら、混乱の中とはいえ、過激な言葉を発したのは重々あやまりである。どうか気を悪くしないでいただきたい」
「そう尋常に仰るなら、何もこちらも威張り散らす理由はない」
「ところで、たった今申した咲耶子という女は、何か貴殿のほうで捕らえておく必要がおありなのか?」
「いやいや、自分としては、先ほどからの騒動を鎮める手段として、やむなく発砲したまでのこと。それゆえ、女の左腕を狙って、命には障りのないように最初から加減しておる」
「ならば、あの鷲の体を狙って撃ったほうがよかったのではないか?」
「あれほどの大鷲が、一発の弾で落ちてくるはずはない。もしそうすれば、女は谷へ振り落とされ、二つの命を傷つけることになる。これも御岳三日の神文の約を守ればこそだ」
「さすがは一火先生、それほどまでのご配慮があろうとは、石見守も敬服のいたすところです。いずれこのことは大講会閉会ののちに主君家康公に申し上げ、何らかの形で表彰したいと思うが……」
長安は老獪な弁舌で、単純な武芸者肌の一火を巧みにおだて上げ、それからまた、
「そちらにご不用なあの咲耶子、以上の次第ゆえ、どうかこちらへお下げ渡し願いたい」
と、ものやわらかに奥の手を出しました。
すると突然、その言葉の横から、
「いや、待った!」
ずんと鉄杖を大地に突き立て、加賀見忍剣がそこへ飛び出してきました。
忍剣の後ろには木隠龍太郎、山県蔦之助、巽小文治、竹童などが、いずれも非凡な面構えをして立ち並んでいます。
長安は、まさか彼らが小太郎山の残党、伊那丸幕下の者たちだとは夢にも思わず、
「なにッ?」
と、五人の姿へ蔑むような視線を向け、
「何者だ! 貴様たちは!」
と、キッと睨みつけました。忍剣は落ち着き払った様子で、こう言いました。
「拙僧は西方の国から、迷える人々を救うためにこの世に現れた釈迦の弟子、文殊菩薩という者だ。――そして後ろに控えているのは、勢至菩薩、弥勒菩薩、虚空蔵菩薩、大日菩薩の面々であるが……」
あまりにでたらめな言葉に、相手が呆気にとられているのを横目で見下しながら、忍剣は真面目な顔で続けました。
「ただいま、我らと親しい勢至菩薩が、鷲に乗って空を飛んでいたところ、この試合場を眺めていた際に、一火殿の鉄砲で傷つけられてしまったようだ。だからこうして、一同揃って見舞いに来たというわけだ。
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