嘆かわしいが、天の巡り合わせというもの、まことにどうしようもないことよ」
と、空を仰いでそう言いました。
(ああ、悠長な……)
小文治が言葉を挟もうとすると、そこをまた遮って、
「伊那丸君にもよく伝言をしておいてくれよ。よいか、ますます自重するようにと」
「は、心得ました」
いい機会だと小文治が立ち上がろうとすると、
「あ、待て」
またか、と小文治は思わずにはいられませんでした。
「先を急ぎますゆえ、何卒、このまま失礼させてくださいまし」
そう言って、そこに落ちていた矢を拾って右手につかむと、居士もようやく腰を上げました。
「小文治、その品(矢)ばかりでは心もとない。いずれこの空が真っ赤に夕焼けする頃には、御岳の山も流血に染まるだろう。――武器を動かすなかれ、血を見るなかれという神の誓いも、到底いまの人々の心では守られる気づかいがない。見ろ――」
手を上げた居士の指が、そこから対面の山の中腹を指さしました。
「あれを見ろ、小文治。乱れた凶雲と殺気に満ち満ちている」
「では、兵法大講会の第二日も、いよいよ無事には収まりませんか」
「おそらく三日目を待たず、今夕限りでめちゃめちゃになるだろう。おう、おまえも早く行くがいい。そして、万が一の備えに、これを証拠として持ち帰るがよかろう」
そう言って居士が彼に与えたのは、先ほど燕作がどこかへ投げ捨てた額板でした。蔦之助の遠矢がけっして敗れたのではないと聞かされ、小文治は小躍りして「では、ごめんを!」と、下山の道へ走り出しました。
「おお、急ぐなよ。急いてあとの不覚をとるなよ」
見送りながら、居士は白鳥の奥の院の方へ、風のように立ち去りました。
しばらくすると、草むらの中から「ウーン……あ痛、アイテテテテ」と腰をさすりながら、燕作が夢遊病者のような顔でのこのこと出てきました。
「どうしたんだろう? おれはいったい……」
あたりを見ると、いつの間にか夕暮れらしい色が、森や草に染み渡っています。梢に透けて見える空の色も、赤い刷毛で塗ったように、まだらな紅に染まっていました。
「あッ……ささささ、さあ、大変!」
弾かれたように思い出し、大鳥居の上を見ると、南無三、そこに立っていた矢はすでに抜き取られているではありませんか。
「ちぇッ、出し抜かれたぞ、小文治のやつめ!」
慌てて自分の腰に手をやってみます。先ほど帯へ差した蔦之助の矢は、たしかにありました。
「うむ、野郎め。まだあいつの足では御岳の試合場までは行き着いてはあるまい。……なんの見ていやがれ、早足の燕作が一世一代の速さでぶっ飛んでいってやるから!」
足と腰の骨を二つ三つ叩くと、孫悟空が急用に出かけたかのように、燕作の体は鳥居の前から見る間に小さくなっていきました。いや、その速さといったらありません。まるで足が地についていないようです。
瞬く間に元の渓流のあたりまでかかってきました。ここは谷間のせいか、一段と暮れ色が濃くなって、もう夕闇がすっかりと立ち込めていたので、燕作は泣き出したくなりました。
「ええ、大変だ」
もしこの遠駆けに遅れをとったら、あの呂宋兵衛がおれをただではおくまい。菊池半助や大久保長安なども、さだめし後で怒るだろう。いや、叱られるだけならまだいいが、勝てば百両といわれた褒美もフイになるし、第一、天下の早足としての名まえがすたれる。
意地でも欲でも、勝たなければならない。「ええい、間道を行け、間道だ」
ついに燕作は、ここまで試合を続けてきて、最後にさもしい町人根性を出してしまいました。
もし他人に知られたら、卑怯な立会いだと言われて徳川家の名を汚すことになりますが、今はそんなことを気にしている余裕などありません。
ただ、何が何でも早く帰り着くことだけを焦った燕作は、約束の道を外れ、沢を左に回って、八町参道へ半分で抜けられる近道を急ぎました。
「おう、しめた!」
五
そこへ抜け出ると、先を急いでゆく小文治の馬に乗った姿がすぐ目の前に見えました。
にわかに元気づいた燕作が、一町半ばかり、死にものぐるいで馬の腹を蹴ると、こいつはどこまで足が達者に生まれた男なのか、神馬・草薙とほとんど互角の速さです。長く伸びた燕作の首と、泡を噛んだ馬の顔が、わずか一間か二間の差で、互いに抜きつ抜かれつして、八町ばかりの平坦な道を、見る間に二町、三町、六町と駆け抜け、ああ、あとわずかで試合場の城戸という、たった二、三十間の地点まで迫りました。
わあっと言う声の波が、馬と人を同時に包み込みました。
燕作は、駆け着いたというよりも、自分の体を城戸の中へ放り込むようにして、
「遠駆け一番!」
倒れ込みながら、腰の矢を高く差し上げました。
それが先か、彼が次か、ほとんど燕作の叫びと同時に、馬ごと踊り込んだ小文治の口からも、同じように、
「一番!」
と絶叫が響きました。
すると、すぐに審判の床几にいた鐘巻一火の口から、
「巽小文治どの、遠駆け一番!」
と、はっきりとした軍配が上がりました。
「ちーッ」
と口をゆがめて歯ぎしりをしたまま、早足の燕作は、腰を立てる気力もなく、何だかわけのわからないことを叫び続けていました。
小文治一番――と聞いて色めき立ったのは、彼の仲間たちです。
「それ、この上は約束のとおり、一火どのから咲耶子を申し受けよう」
忍剣をはじめ、龍太郎に蔦之助や竹童などが、審判の床几にいる鐘巻一火のもとへ駆け寄ると、さっきまで勝ち誇っていた徳川家のほうからも、大久保石見守、菊池半助、鼻かけ卜斎、和田呂宋兵衛。
そのほか大勢の人数が、ドッと流れ出してきて、
「検証の一火どの、軍配が違うぞ!」
と抗議を持ち込みました。
一火は公平な態度で、
「なぜ拙者の検証が違うと言われるか」
と、憤然として突っ立ちました。
すると石見守は、一火の左手に掴んでいる矢を指さして、
「それは誰が持ち帰った矢であるか」
「これは小文治どの。またこちらは燕作の持ってきた矢であるが、それがどうかしたと言われるのか」
「違う。この遠駆けは勝負なしだ」
「なぜ?」
「小文治は蔦之助の矢を取って帰るべきが当然、また燕作は伝内の矢を持ち帰らねばならぬはず。それを双方が心得違いをして、それぞれ取り違えてきた以上、この遠駆け試合はやり直しか、互角とするほかあるまい」
卑怯な言い分です。負けたがゆえに理のないところへ理屈をつけた難癖です。
かりにも武門の誇りをかけて行われた試合のうえに、唾棄すべき汚い心がけと言えるでしょう。
忍剣や龍太郎の顔には、見る間に青い怒気が上りました。その禅杖や戒刀は、いまにも長安の首へ飛びかかろうとする勢いでしたが、彼らの周囲にも、菊池半助や呂宋兵衛が目を配って護っていました。
ただ困ったのは鐘巻一火です。彼は双方の板挟みとなって、この場をどう処理してよいのか、ほとんど途方に暮れてしまいました。
それを是とするか非とするか、自分の口から出るたった一言で、どんな凶刃が弾みで御岳の神前を血の海に変えてしまうかもしれないのです。
「うーむ。
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