初級翻訳・絵のない絵本 第1話

アンデルセン ハンス・クリスチャン

絵のない絵本

 ふしぎなことです! わたしは、何かに深く心を動かされているときには、まるで両手と舌とが、からだにしばりつけられているような気分になるのです。そんなときには、心の中でいきいきと感じていることでも、それを絵に描くことも、言葉で言い表すこともできなくなってしまうのです。

 しかし、それでもわたしは絵描きです。わたしの眼が、わたし自身にそう言い聞かせています。それに、わたしのスケッチや絵を見てくれた人たちは、みんながみんな、わたしの才能を認めてくれているのです。

 わたしは貧しい若者で、町のとってもせまい小路に住んでいます。といっても、光がさしてこないなんてことはありません。まわりの屋根ごしに、ずっと遠くの方まで見わたせるほど、高いところに住んでいるからです。

 この町に来たばかりのころは、ひどくせま苦しくて、さびしい思いをしたものです。森やみどりの丘の代わりに、地平線に見えるものといえば、ただ灰色の煙突ばかりなのですから。おまけに、友だちひとりいるわけではなく、あいさつを交わす顔なじみさえいませんでした。

 ある晩のこと、わたしはたいへん悲しい気持ちで、窓のそばに立っていました。ふと窓をあけて外をながめると、ああ、そのとき、わたしはどんなに喜んだことでしょう! そこには、わたしのよく知っている顔が、まるい、なつかしい顔が、遠い故郷からの、いちばん親しい友だちの顔が見えたのです。

 それは月でした。なつかしい、昔のままの月だったのです。故郷の沼地のそばに生えている、ヤナギの木のあいだから、わたしを見おろしたときと、すこしも変わらない月でした。わたしは自分の手にキスをして、月にむかって投げました。すると月はまっすぐわたしの部屋の中にさしこんできて、これから外に出かけるときには、毎晩ちょっとわたしのところをのぞきこもうと、約束してくれたのです。

 そのときからというもの、月はちゃんと約束を守ってくれています。ただ残念なのは、月がわたしのところに、ほんのわずかな間しかいられないということ。でも、来るたびごとに、その前の晩か、その晩にどこで何を見たのか、あれこれと話してくれるのでした。

「さあ、わたしの話すことを、絵にお描きなさい」と、月ははじめてたずねてきた晩に言いました。「そうすれば、きっととてもきれいな絵本ができますよ」

 そこでわたしは、いく晩もいく晩も、言われたとおりにやってみました。わたしは、わたしなりに新しい「千一夜物語」を絵であらわすことができるかもしれません。でも、それではあまりに数が多すぎます。ここに書きしるすものは、勝手に選びだしたものではなく、月が話したとおりの順序にならべたものなのです。すぐれた才能を持つ画家や詩人や音楽家が、もしもこれをやってみようという気があれば、もっとりっぱなものにすることができるにちがいありません。わたしがお見せするものは、ごく大ざっぱに紙の上に書きつけた、ほんの輪郭にすぎません。

 そしてそのあいだには、わたし自身の考えもまじっています。というのも、月はかならず毎晩きてくれるわけではなく、ときには一つ二つの雲が、わたしと月のあいだに入りこんでくることもあったからです。

第一夜

「ゆうべ」と、月は話しはじめました。
「わたしは、インドの澄みきった空気の中をすべって、ガンジス河にわたしの姿をうつしていました。わたしの光は、古いプラタナスの葉が、まるでカメの甲のように盛りあがって茂っている生垣の中に、さしこもうとしていました。

 するとそのとき、茂みの中から、カモシカのように身軽で、イブのように美しい、ひとりのインド娘が出てきました。このインド娘は、なにかしら空気のように軽やかでしたが、それでいて、ぴちぴちとした、ゆたかなからだつきをしていました。わたしは、この娘のきゃしゃな皮膚をとおして、考えていることを読みとることができました。

 とげのあるつる草が、娘の履物を引きさきましたが、そんなことにはかまわずに、娘はいそいで先へ進んでいきました。そのとき、野獣がのどのかわきをうるおして河から帰ってきましたが、娘を見るとびっくりして、そばをとびすぎていきました。むりもありません。この娘は、火のもえている明りを手に持っていたのです。娘はほのおが消えないように、そのまわりに手をかざしていましたから、わたしはかぼそい指の中の、いきいきとした赤い血を見ることができました。娘は河に近よって、明りを流れの上におきました」すると、あかりは流れにのって、少しずつ下っていきました。
ほのおは、今にも消えてしまいそうに、ちらちらと揺れていました。
それでも、あかりは燃えつづけていました。
娘の黒くきらきらと輝く瞳は、長い絹糸のようなまつ毛の奥から、魂のこもった眼差しで、そのほのおのあとをじっと見つめていました。
娘は知っていたのです。あのあかりが、自分の目に見えているかぎり燃えつづけていれば、愛する人はまだ生きている。でも、もしも消えてしまったら、もうこの世にはいないのだということを。
見ていると、あかりは燃えながらふるえました。
娘の心も、不安でふるえました。
娘はその場にひざまずいて、祈りました。
すぐそばの草むらには、ぬらぬらとしたヘビがいましたが、そんなことには気づきません。娘はただ、梵天王(ぼんてんおう)のことと、自分の花婿のことで頭がいっぱいだったのです。
「あの人は生きている!」
娘が喜びの声をあげると、山々からこだまが返ってきました。
「あの人は生きている!」

第二夜

「きのうのことですよ」と、月がわたしに話してくれました。
「わたしは、家々に囲まれた小さな中庭をのぞきこんでいました。
そこには一羽のめんどりが、十一羽のひよこたちといっしょに眠っていました。
ところが、その周りをひとりの小さな女の子が、はしゃぎまわっていたのです。
めんどりはびっくりして、『コッコッコッ』と鳴きながら羽を広げ、ひよこたちをかばっていました。
そこへ女の子の父親が出てきて、女の子を厳しく叱りつけました。
わたしはそれきり、もうそのことは気にせずに先へ進んでいきました。
ところが今夜、ほんの二、三分前のことですが、わたしはまた同じ中庭をのぞいていました。
はじめのうちはひっそりとしていましたが、まもなく、あの女の子がこっそりと出てきて、とり小屋にしのびよったのです。
そして、かんぬきをはずして、めんどりとひよこたちのいる小屋の中へ入っていきました。
にわとりたちは大声で鳴きながら、羽をばたばたと打ちつけて飛びまわりました。
それでも、女の子は追いかけます。
わたしは壁の穴から見ていたので、このありさまが手に取るようにはっきりとわかりました。
わたしは、このいたずらな子にすっかり腹を立ててしまいました。
ですから、父親が出てきて、きのうよりもずっと厳しく叱りつけ、女の子の腕をつかんだときには、本当によかったと思いました。
女の子は頭をうしろへそらしました。
その青い瞳には、大粒の涙がキラキラと光っていました。
『おまえ、ここで何をしていたんだ?』と父親がたずねました。
すると、女の子は泣きながら言ったのです。

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