人々が悲劇の劇場に近づいたとき、みんなは円形劇場の石の段の上にすわりました。
こうして数千年前と同じように、ふたたびこの劇場のわずかな場所が人々に占められたのです。
舞台はまだ昔のままになっていました。
壁を塗った側面と、背景に二つのアーチがあって、そこから以前の時代と同じ装飾が見えました。
つまりそれは自然そのもののことで、ソレントとアマルフィのあいだの山々です。
歌姫はたわむれに古代の舞台に上がって歌いました。
この場所が霊感を与えたのです。
わたしは思わずも、鼻息あらく、たてがみをなびかせつつ走り去るアラビアの野馬を思いださずにはいられませんでした。
歌姫の歌には、ちょうどそれと同じ軽やかさと確かさとがありました。
またわたしは、ゴルゴタの丘の十字架の下で苦しみ悩む母親のことを思わずにはいられませんでした。
ちょうどそれと同じ心にしみ入る、深い苦痛が現われていました。
そしてあたりには、数千年の昔と同じように、ふたたび拍手と歓呼の声がひびきわたりました。
『しあわせな人! すばらしい才能にめぐまれた人!』と、みんなは歓声をあげました。
三分後には舞台は空になりました。
すべてが去りました。
もう物音一つ聞えなくなりました。
あの一団は歩み去ったのです。
しかし、廃墟はあいもかわらず立っていました。
これからもなお数百年のあいだ、このままに立ちつづけることでしょう。
そしてこの瞬間の喝采のことも、美しい歌姫のことも、その歌声やほほえみのことも、だれひとり知る者もなく、忘れられ、過ぎ去ってしまうのです。
わたし自身にとっても、この一時はすでに消え去った思い出なのです」
第十三夜
「わたしはある編集者の窓をのぞきこみました」と、月が言いました。
「そこはドイツのどこかでした。
その部屋には、りっぱな家具と、たくさんの書物と、乱雑に積みかさねた新聞がありました。
若い男が幾人もいました。
編集長自身は大きな机のそばに立っていました。二冊の小さな本が、どちらも若い作家によって書かれたもので、批評されることになっていました。
「この一冊はぼくに送られてきたものなんだが」と、編集長が言いました。
「ぼくはまだ読んでいない。だが、きれいな装丁だね。内容はきみたちどう思う?」
「ええ」と、ひとりが言いました。この人は自身も詩人でした。
「とてもいいですよ。すこし長たらしくてだらだらしていますが、まあなんといっても若い人ですからね。詩句にしたって、もうすこし直すこともできるでしょう。思想はたいへん穏健です。むろん、ごくありふれた考え方ですけども。しかし、どう言うべきでしょう? 何か新しいものを見つけようったって、いつも見つかるわけじゃないんですから、ほめてやっていいと思います。といったところで、この男が詩人として立派なものになろうなどとは、ぼくもけっして思ってはいません。ともかく知識もあり、すぐれた東洋学者でもあり、またたいへん穏健な批評をする人なんです。ぼくの『家庭生活についての随想録』にりっぱな批評を書いたのは、この男なんですよ。若い人に対しては寛大でいてやりたいものです」
「いや、あれはまったくの愚物ですよ」と、この部屋にいたもうひとりの紳士が言いました。
「詩において凡庸であるということぐらい悪いことはありません。それにあの男ときたら、一歩も凡庸以上に出ていないんですからね」
「かわいそうなやつ!」と、第三の男が言いました。
「しかもこの男の叔母さんは、この男のことを喜びとしているんです。その叔母さんというのは、編集長さん、あなたのこのあいだの翻訳にあんなに大勢の予約者を集めてくれた人なんですよ――」
「ああ、あの親切な婦人ね! うん、ぼくはこの本をごく簡単に批評することにしたよ。『疑う余地なき才能! 歓迎すべき天賦の素質! 詩の園に咲いた一輪の花! 装丁もいい』などとね。ところで、もう一つの本はどうだろう! あの著者は、ぼくにも買わせようという腹らしい。――評判がいいよ。あの男は天才をもっているんだね。きみたち、そう思わないかね?」
「ええ、みんなはそう言いたててますね」と、さっきの詩人が言いました。
「だけど、すこし粗雑ですよ。コンマの打ち方なんか、あまりにも天才的すぎますね」
「あの男はこきおろしてやって、ちっとは腹をたてさせたほうがためになりますよ。さもなきゃ、のぼせあがってしまいますからね」
「しかし、それは不当です」と、第四の男が大声で言いました。
「そんな小さい欠点ばかりを数え立てないで、いいものを喜びましょうよ。しかもここには、それがたくさんあるんです。まったく、あの男は群を抜いていますよ」
「とんでもない! もしあの男がほんとうの天才だとすれば、そのくらいの鋭い非難にだって耐えることができるさ。あの男を個人的にほめる者はいくらでもある。われわれはあの男を慢心させないようにしようじゃないか!」
「疑う余地なき才能!」と、編集長は書きました。
「だれにもありがちの不注意。この著者もまた不幸な詩句を書くことは、二十五ページに見いだされる。そこには二つの母音重複がある。古人についてさらに研究されんことを切望する、云々」
わたしはそこを立ち去りました」と、月は言いました。
「それから、その叔母さんの家の窓をのぞいてみました。そこには評判のいいおとなしい詩人が、招待されたすべての客から賞賛されて座っていました。この人は幸せでした。わたしはもうひとりの詩人を、粗雑な詩人をさがしました。この人もまた、ひとりの後援者のところに集まった大勢の人々の中にいました。そこでは、もうひとりの詩人の本が話題にのぼっていました。
『わたしはあなたの本も読みましょう』と、後援者が言いました。
『しかし正直に言うと、あなたも知っての通り、わたしは自分の思っていることをなんでも言ってしまう人間ですが、こんどの本に対してはそんなに期待していませんよ。あなたはあまりに粗雑すぎる! 空想的すぎる――といっても、あなたが人間としてきわめて尊敬すべき人であることは、わたしも認めています』
ひとりの若い娘が片隅に座って、本を読んでいました。
――天才のほまれはどろにまみるれど、
凡庸のわざは空高くかかげらる!――
『こは古き語り草なれど、
なおつねに新たなり!』」
第十四夜
月が話しました。
「森の道にそって、二軒の農家があります。戸口は低く、窓は上と下とについています。あたりにはサンザシやヘビノボラズが生えています。屋根は苔でおおわれていて、黄色い花やイワレンゲが咲いています。小さい庭にはキャベツとばれいしょがあるだけですが、生垣にはニワトコが花をいっぱいに咲かせています。その下に、ひとりの小さい女の子がすわっていました。
その子は鳶色の眼で、二軒の家のあいだに立っている古いカシワの木をじっと見つめていました。
この木は枯れた高い幹を持っているのですが、その上の方は鋸でひき切られていました。
そこにコウノトリが巣をつくっていました。
ちょうどいまコウノトリがその上に立って、くちばしをガチャガチャやっていました。
ひとりの小さい男の子が出てきて、女の子のそばに並びました。
このふたりは兄妹だったのです。
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