初級翻訳・絵のない絵本 第13話

アンデルセン ハンス・クリスチャン

ただひとり、胸に憧れを抱いて飛んで行きました。
青い、ふくれあがる波をこえて、ひとりさびしく飛んで行きました」――

第二十九夜

「きみにスウェーデンの光景をもう一つ話してあげましょう」と、月が言いました。
「薄暗いもみの木の森のあいだ、ロクセン湖の陰気な岸辺近くに、古いブレタの僧院があります。
わたしの光は壁の格子をとおって、広い円天井の部屋へすべりこんで行きました。
その部屋では、王たちが大きな石の棺の中でまどろんでいるのです。
その棺の上の壁には、この世における栄華をあらわすもののように、一つの王冠が人目をひいています。
けれども、それは木でこしらえてあって、そこに色を塗り、金めっきをしたものなのです。
そしてそれは、壁に打ちこまれた一本の木釘で、しっかりととめられています。
その金めっきをした木は虫に食いあらされています。
クモが王冠から棺まで網を張りめぐらしています。
これは、人間の悲しみと同じように、はかない喪章の旗です! 王たちは、なんて静かにまどろんでいるのでしょう!
わたしはあの人たちのことをはっきりと覚えています! あんなにも力強く、あんなにも決然と喜びや悲しみを語った、口もとにただよう大胆な微笑が、いまもなお目に浮かんできます。
蒸気船が魔法のかたつむりのように山々のあいだを縫ってきますと、ときおり旅人が会堂へやってきます。
そしてこの円天井のお墓の部屋を訪れて、王たちの名前をたずねます。
でもその人の耳には、王たちの名前は忘れられたもの、死んだものとしてひびくのです。
その人は虫の食った王冠を見上げてほほえみます。
そしてその人が本当に敬虔(けいけん)な心の持ち主であれば、そのほほえみの中には哀愁の色がただよいます。
まどろみなさい、死者たちよ! 月はきみたちのことを覚えています。
月は夜、もみの木の王冠のかかっている、きみたちの静かな王国へ、冷やかな光を送ってあげます!――」

第三十夜

「国道のすぐそばに」と、月が話しました。
「一軒の旅館があります。
そしてその真向かいに、大きな馬車小屋があります。
小屋の屋根はちょうど葺(ふ)いたばかりでした。
わたしは垂木(たるき)のあいだと開いている天井窓から、そのうす気味悪い小屋の中をのぞいてみました。
七面鳥が梁(はり)の上で眠っていました。
鞍(くら)はからっぽの秣桶(まぐさおけ)の中に入れて、休まされていました。
小屋のまん中には、旅行馬車が一台置いてありました。
その持ち主はまだぐっすりと寝こんでいましたが、馬はもう水を飲まされていました。
御者は道のりの半分以上もよく眠ってきたのに、――それはわたしがいちばんよく知っていますが――まだ手足をのばしていました。
下男部屋への戸は開いていましたが、寝床はまるでひっくり返されたかと思われるようなありさまでした。
ろうそくは床の上に置いてあって、燭台の中に深く燃え落ちていました。
風が冷たく小屋の中を吹きぬけていました。
時刻は真夜中というよりは、もう明け方近いころでした。
向こうの馬屋の床の上には、旅まわりの音楽師の一家が眠っていました。
たぶん、父親と母親は瓶の中の燃えつくような雫(しずく)を夢に見ていたものでしょう。
青白い小さな女の子は目の中の燃えるような雫を夢に見ていました。
竪琴は頭のそばに置いてあり、犬は足もとに横たわっていました。
――」

第三十一夜

「ある小さい田舎町でのことでした」と、月が言いました。
「わたしはそれを去年見ました。
しかし、まあ、そんなことはどうでもいいのです。
ともかく、わたしははっきりと見たのです。
今夜わたしはそのことを新聞で読みましたが、これはそんなにはっきりとはしていませんでした。
宿屋の下の部屋に熊使いがすわって、夕飯を食べていました。
熊は家の外のまき小屋のうしろにつながれていました。
このあわれな熊は、見るからに恐ろしそうなようすをしていましたが、まだ一度も人に害を加えたことはありませんでした。
上の屋根裏部屋では、わたしの明るい光を受けて、三人の小さい子供が遊んでいました。
いちばん上の子はせいぜい六つぐらいで、いちばん下の子は二つをこしてはいませんでした。『バタン、バタン』と階段を上ってくるものがありました。いったい、だれでしょう? 戸がガタンと開きました――それは熊でした。あの大きな、毛むくじゃらの熊ではありませんか! 熊は下の中庭に立っているのがたいくつになったのです。そして、階段を上る道を見つけたのでした。

「わたしはそれをのこらず見ていました!」と、月が言いました。

「子供たちはこの大きな毛むくじゃらの動物を見るとびっくりぎょうてんして、めいめい隅っこへ這いこみました。けれども、熊は三人ともみんな見つけてしまいました。そうして鼻でくんくん嗅ぎまわりました。でも、べつに悪いことはなんにもしませんでした。『これはきっと大きい犬だ』子供たちはそう思ったものですから、熊をなでてやりました。熊はごろりと床の上に横になりました。いちばん小さい男の子はその上をころげまわって遊びました。その子のちぢれた金髪の頭は、熊の濃い黒い毛皮の中にかくれました。こんどは、いちばん大きい子が太鼓を持ちだして、ドンドンたたきました。すると、熊は二本の後足で立ちあがって、踊りだしました。それはほんとにおもしろいありさまでした!

子供たちは、めいめい鉄砲をかつぎました。熊も一つもらいました。そして、それをちゃんとかつぎました。これは、子供たちの見つけたすばらしい仲間です! それからみんなは、『一、二、一、二!』と行進しました。そのとき、戸に手をかけたものがありました。戸が開きました。それは子供たちの母親でした。その瞬間の母親のようすといったら、まったく、きみに見せてあげたいものでした。物も言えない驚き、石灰のような青白い顔、半ば開いた口、じっと見すえた眼、そうしたようすはほんとにきみに見せてあげたいものでした。ところがいちばん小さい男の子は、心から嬉しそうにうなずいてみせました。そして、この子なりの言葉で大声に叫びました。『ぼくたち、兵隊ごっこちているだけよ!』そこへ熊使いがやってきました」

第三十二夜

寒い風がぴゅうぴゅう吹いていました。雲が飛び去って行きました。月はただときおり見えるだけでした。

「静かな大空をとおして、わたしは飛び行く雲を見おろしています」と、月は言いました。「大きな影が地上を走って行くのが見えます。このあいだ、わたしは牢獄の建物を見おろしました。窓をしめた一台の馬車が、その前でとまりました。ひとりの囚人が連れだされることになっていたのです。わたしの光は格子のはまっている窓から壁のところまで押し入って行きました。囚人はこの世の別れに、何か二、三行壁にきざみつけました。しかしこの男の書いたのは言葉ではありません。一つのメロディーでした。この場所ですごした最後の夜に、心の底からほとばしり出た一つのメロディーだったのです。戸が開きました。囚人は外へ連れだされました。そのとき、わたしのまるい月の輪をふりあおぎました。

雲がわたしたちのあいだを走りました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました