私はもう、橘屋の長男・栄蔵ではありません。私は尼ヶ瀬の光照寺で小僧になりました。今日から私の名は良寛です」
「良寛……?」
お父さんはぼんやりとそうつぶやきました。
「良寛です。親不孝な息子で申し訳ありません。でも、私にはこうするより他に道がなかったのです。これは、昨日まで栄蔵が身につけていた着物と脇差です。もう私には必要ありませんので、今日はこれを返しに参りました」
そう言って、小僧さんの良寛さんは持ってきた風呂敷包みを畳の上に置きました。しばらくして、ようやく両親にすべてを許してもらった良寛さんが、再び光照寺へと戻っていく姿が、街路の向こうに小さく見えました。越後の冬は訪れるのが早く、海から吹いてくる風は、もう道や畑を白く染め上げていました。良寛さんの剃りたての青々とした頭は、雪をはらんだ雲の下で、とても寒そうでした。
七 閂(かんぬき)
夕暮れ時になると、良寛さんは心が落ち着かなくなりました。鐘を撞(つ)いたあとで、鐘撞堂のあたりをそわそわとうろつくことがよくありました。また、門を閉めに行ったついでに、門の外に立ち、ぼんやりと自分の家の方を眺めていることもありました。誰かがやって来ないだろうか――弟の左衛門か、それとも懐かしいお母さんが会いに来てはくれないだろうか。そんな期待を、自分でも気づかないうちに抱いていたのです。
「修行のために親も兄弟も捨ててきた身なのに、こんなことではいけない」と、何度も自分を叱りつけました。しかし、どれほど言い聞かせても、夕暮れ時になると心がざわついて、どうしても落ち着かないのでした。心は自然と門の方へ向かってしまうのです。
(兄ちゃん……)
いつかのように、左衛門が門の外から呼んでくれるのではないかと、無意識のうちに耳を澄ませてしまうのでした。そんな夕暮れには、いつも温和でゆったりとしている良寛さんの心も、情けないほどにいらだち、ちょっとしたことにも腹を立てたりしました。
「おい、良寛」
ある日の夕方、兄弟子が言いました。また門の方へ行きたくなってそわそわしていた良寛さんは、顔を上げました。
「ちょっと、頭を剃ってくれ」
髪を剃れと言うのです。良寛さんは眉をひそめました。
「まだそんなに伸びてはいませんよ。このあいだ剃ったばかりですから」
「文句を言わずに剃れよ」
「こんなに暗くなってからでなくてもいいでしょう。明日になってからで」
「文句を言うなと言ってるだろう。軒端(のきば)に出ればまだ明るいよ」
良寛さんはしぶしぶ立ち上がり、剃刀(かみそり)を持ってきました。二人は、紫陽花(あじさい)が薄闇の中にほの白く浮かび上がっている縁側に腰を下ろしました。
「痛いよ、もっとうまく剃れないのか」
兄弟子は頭を剃られながら、ぶつぶつと文句を言います。
「でも、あなたの頭が悪いんですよ。真ん中がへこんでいるから、剃りたくて仕方がないくらいなんです」
と、良寛さんも黙ってはいません。
「そんなことがあるもんか」
「本当ですよ。合わせ鏡をしてよく見てごらんなさい。剃りにくい頭です。頑固な頭ですね」
「馬鹿を言うな」
「今晩もまた、どこかへ出かけるんですか?」
「うん、ちょっとね」
「和尚さんが旅に出られてから、毎晩ですね」
「そんなことがあるもんか」
「いいえ、毎晩です。私はよく知っていますよ。一体、どこへ行くんですか」
「子供には関係のないところだよ」
「私は子供じゃありません」
「へえ、一体いくつになったんだ?」
「二十二です」
「そんなになるのかい。ふうん、しかし、まるで子供だな。育ちがいいからな。お坊ちゃん、お坊ちゃんで育ってきたんだからな」
「馬鹿にしないでください。私は、あなたがどこへ行くのかくらい知っていますよ」
「どこだい。当ててみろよ」
「昨夜、あなたが帰ってきて私の横で寝たとき、私は眠っているふりをしていましたが、本当は目を開けていたんです」
「うん、それで?」
「酒の匂いがぷうんとしてきましたよ。あなたの方から。あなたは毎晩、茶屋へ行くのでしょう」
「うん、図星だ。坊ちゃんに見えても、お前はなかなか話がわかるね。なんなら、今夜お前も連れて行ってやろうか」
「私は、そんな生臭坊主じゃありません」
「そうかい。偉くなる坊主は違うなあ」
「…………」
「偉くなる坊主はさぁ」
「あなたはそんなことを冗談で言っているのでしょうが、実は私は、本当に偉くなりたいのです」
「え、本当に? お前が?」
兄弟子はクスリと笑って言いました。
「そりゃあ偉くなるさ。そのうち大きな寺の和尚さんになるだろうよ」
「あなたは皮肉のつもりで仰るんでしょうが、私は本当に偉くなりたいのです」
「皮肉じゃないよ。本気で言っているんだ」
「本当に、私は偉くなりたいのです」
「だからさ、お前は偉くなるよ」
「いいえ、なれないのです」
「え? でも、なると言ったじゃないか」
「いいえ、なりたいのですが、なれません。」「どうして?」
「わたしは、あなたを生臭坊主だと思っているからです」
「そんなに真面目にならなくてもいいだろう」
「いいえ、あなたは生臭坊主です。ですが、わたしもあなたと同じです。執着を断ち切ることができていないのです。頭を丸め、お衣を着てはいますが、わたしもあなたも、普通の人となんら変わりはありません。あなたは夕方になると、お酒が飲みたくなる。わたしは夕方になると、家が恋しくなるのです。こうして今、あなたの頭を剃っていても、門の外でいつかのように左衛門がわたしを呼んでいるのではないかと、気になって仕方がないのです」
「そりゃそうだろう。家が近いからな」
「その、家が近いというのがいけないのです。わたしにはよく分かっています。わたしは、もっと家から離れなければいけないのです」
「それなら、どこか遠くへ行けばいいじゃないか。唐天竺へでも」
「ええ、その通りです。唐天竺ほどではなくとも、せめて備中玉島(びっちゅうたましま)でもよいのです」
「備中玉島? 備中玉島なら、この間ここの寺へ泊まってゆかれた、ほら、何とかいうお坊さんが……」
「国仙(こくせん)和尚です」
「うん、そうそう国仙和尚。あれが玉島から来たと言っていたじゃないか」
「そうです、玉島の円通寺(えんつうじ)です。それでわたしは、どうしても弟子にして連れて行ってくださいと頼みたかったのですが、結局できませんでした。家を遠く離れて行くのが怖いのです。こんなことでは駄目です。こんなことでは、わたしはいつまでも、生臭坊主の、糞坊主のままです」
「ひどいことを言うな。生臭坊主でも偉くなれないことはないぜ。世間には、生臭坊主のままで和尚になっているのがいくらでもいるからな」
「わたしが偉くなりたいと言うのは、あなたの考えているのとは違うのです」
「どう違うんだ?」
「わたしは名声や位はいらないのです。乞食のような暮らしでもかまいません。ただ、誠の道に達することができれば、それでいいのです」
「なるほどね、結構なことだ。わたしにはそういう難しいことはよく分からないよ。やあ、ご苦労さん。
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