船頭たちは、これなら船に楽に載せられると言って大層喜びました。
それなら私は、良いことをしたのです。
奉行さまに褒められてもいいはずなのです」
「そんな理屈だろうか」
「しかし、その時私は、自分の考えが間違っていたのだと分かりました」
「どの考えがだ?」
「奉行さまというものが、下々をいたわっているという考えです。
そうではなかったのです。
自分の駕籠の方が大切だったのですよ」
「そうかもしれないな」
「いいえ、きっとそうなのです。
そしてよく考えてみますと、日本中の奉行さまという奉行さまが、多かれ少なかれ、みなそうなのに違いありません。
上に立つ者は、下に立つ者をいたわってなどいないのです」
「一概にそうとも言えんのう」
「いいえ、そうなんです!」
栄蔵は声を荒らげて言いました。
和尚さんは黙り込んでしまいました。
何か気まずい静けさが続きました。
和尚さんは柴の中から松ぼっくりを拾い出し、それを炉にくべました。
二人は松ぼっくりが燃えるのを黙って見ていました。
「それでお前さんは、世の中がいやになったということだな」
「そうです」
「世の中には嘘や不正ばかりある。だから坊主になって、世の中を捨てたいということだな」
「その通りなのです」
「一つ、わしは聞きたいのだが、お前さんの心の中には、いけないものはないのかのう。
お前さんの話を聞いていると、世間の人間はみんないけなくて、お前さんだけが良い者のように聞こえるが、そのお前さん自身の中には、いけないものはないのか」
栄蔵はハッとして、和尚さんの目を見つめました。
和尚さんは目をそらして、また柴の中から松ぼっくりを探し出し、炉の火に投げ入れました。
どこかで冬の千鳥が鳴く声がしました。
突然、大きく見開かれた栄蔵の目から、ぽろりと涙が落ちました。
「わたしが悪うございました」
と、栄蔵は声を震わせて言いました。
今までの上ずった声が、すっかり静かな低い声に変わっていました。
それが、語り手である栄蔵の心も一緒にすっかり変わったことを表していました。
「わたしは、思い上がっておりました」「わたしの心の中にも、たくさん悪いものがあるのです。もし世の中の人が悪いというのなら、私の方がもっといけない人間かもしれません」
「うん、それが分かったかい」
「よく分かりました」
「分かったのなら、わざわざ坊主になる必要もあるまい」と、和尚さんは微笑みました。
「いいえ、坊さんになるという決心は変わりません」
「どうしてかな」
「自分の心の中にあるいけないものをはっきりさせて、その悪いものを一生懸命に取り除くのです。ちょうど畑から雑草を抜くように」
「うむ、それで?」
「そうして自分の心がしっかりと磨かれた暁には、世の中の人たちの心から、悪いものを除いてあげたいのです。私にそんな大きな力があるかどうかは分かりません。ですが、自分の力の及ぶ限りそうしたいのです。医者が人の体から病気を追い出してくれるように、人の心からいけないものを取り除いて救ってあげたい。この世は美しく素晴らしい場所だと、子供のころに教わりました。私もそう思います。ですが、もっともっと美しく、良いものにしたいのです」
和尚さんは黙ってうなずいていました。それから燃えている枝を持ってきて、行燈(あんどん)に火を移しました。いつのまにか、もう日が暮れていたのです。
「お前の言いたいことは、よく分かったよ。しかし、それはなかなか難しいことだ。わしもそうした志を持って坊主になった。人々を教え導いて、世の中を一層よくするつもりでのう。だが、今お前の話を聞きながら、自分は果たしてどれだけのことができたのかと思って寂しくなったよ……いや、お前の言いたいことはよく分かった」
「では、ここに置いていただけないでしょうか」と、栄蔵は目を輝かせました。
「うん、置いてやってもよい。しかし、お前は古い家柄である橘屋の長男だろう。お前が出家してしまったら、跡取りはどうするのだ」
「ですが結局のところ、その方が家のためにもなるのです。私は名主としては全く役に立ちません。弟があとを継げば、きっとうまくやってくれるはずです」
「弟はいくつになった」
「十三です」
「お前は?」
「十八です」
和尚さんはしばらく考えていましたが、急に「はっはっは」と笑い出しました。
「以南(いなん)さんが――お前の父さんが驚くだろうな。神官の家から坊主が出たと言ってのう。だが、それも面白いかもしれない」
栄蔵もつられて微笑みました。
「父さんは許してくれると思います。父さんには私の気持ちがよく分かっているのです。父さん自身が以前からよく、自分も僧侶になって、山の中にでも閉じこもりたいと言っておられましたから」
「そうか。それなら差し支えもあるまい」
「では、許していただけますか。ありがとうございます。では早速、頭を剃ってください」
「そう一途に言うものでない。若い者はこれだから困るよ。まあ一応今日は家に帰って、両親によく話をして、その上で来るといい」
「いいえ、今からすぐにしてください。思い立ったが吉日と言います。今日、今からここで剃らないと、しそこなう恐れがあります」
「気の早いことだ。わしは逃げも隠れもしない。明日も明後日もここにいるから、両親の許しを得てから来なさい」
「それでは失礼します!」
「な、何をなさるのだ、刀など抜いて」
「和尚さんがぐずぐず仰るから、自分で髪を切るのです。いいえ、止めないでください。間違って頭を切るかもしれません。切ってしまっても構わないのです。私の頭なのですから」
和尚さんは吹き出しました。
「いやはや、これはどうも……」
そして栄蔵は、その日に坊さんになりました。剃りたての青い頭で、まだ着慣れない衣をまとった栄蔵は、翌朝、風呂敷包みを一つ下げて家へと向かいました。ちょうど家の前で、これから手習いにでも行くらしい弟の左衛門とすれ違いましたが、弟は見知らぬ人だと思って気にも留めず、どんどん通り過ぎようとします。栄蔵は可笑しくなって、
「おい、こら左衛門!」
と呼びました。
「なんだい、誰だい」と言って弟は振り返りました。
弟はしばらく栄蔵の顔を見ていましたが、やがて兄だと分かったらしく、きゅっと顔をゆがめました。笑おうとするのと同時に悲しくなるとき、人はそういう表情をするものです。それから弟の顔は恥ずかしさで真っ赤になりました。
「驚いたろう」と栄蔵は言いました。
弟は返事をしないで、栄蔵のそばを風のように通り過ぎたかと思うと、家の中へと飛び込んでいきました。
「お母さん、兄ちゃんが帰ってきたよ!」
と泣き声で叫んでいるのが聞こえました。小さい弟や妹たちも、栄蔵の変わり果てた姿を見ると、奥へ逃げ隠れたり、わあっと泣き出したりしました。お父さんとお母さんは、しばらく言葉を失っていました。お母さんは手に持っていた櫛(くし)を落としてしまいました。
「栄蔵ではないか」とお父さんは、玄関の上がり口に立ち尽くしたまま言いました。
「お父さん、お母さん、どうか許してください。
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