進路については一切干渉しない。
すべてはお前の決断に任せる。
ただし、仕事には貴いものと賤しいもの、上等なものと下等なものがあるという区別を忘れてはいけない。
少なくとも、報酬(お金)目当てになりやすい仕事は避けてほしいものだ。
もういいよ。
あっちへ行って勉強しなさい」
と言って、お父さんは僕を解放してくれた。
同級生たちがすでにそれぞれ自分の将来の夢を定めて、いろいろと夢を大きく膨らませているこのご時世に、僕一人がのんびり構えているわけにはいかない。
お父さんに言われるまでもなく自分なりにあれこれと考えてみたけれど、やっぱり「小説家(創作家)」が一番自分の才能を発揮できるように思われた。
蛙の子は蛙と言うように、僕は数学や物理は大の苦手だけど、文学や文章の方面だけは知らず知らずのうちに心が惹かれてしまう。
それに、お父さんは手っ取り早く大金が儲かるような仕事が大嫌いだ。
報酬を度外視して、とことん頭を悩ませるような職業がお好みなのだ。
「小説家なら、ものすごい苦心をするわりに、一歩間違えれば一文にもならないし、たとえ大成功したって、日本ではお金持ちになれる心配なんてまずないからなあ」
と、僕はなんだか妙にやる気になっていた。
そんなところに持ってきて、新学期が始まってすぐ、例の光風霽月居士が、僕が書いた自由作文「夏中見たこと聞いたこと」の答案に、
「秀逸(たいへん素晴らしい)。
観察眼は奇抜で鋭く、筆の勢いは鋭利。後世恐るべし」
と赤字で書いて大絶賛してくれたものだから、すっかり僕の心の中の決心は固まってしまった。
もしこれが崖から飛び降りようとしている自殺志願者なら、その背中を押してしまうようなものだから、褒めてくれた居士には確かに責任がある。
とはいえ、小説家は銀行の頭取や医学博士なんかと違って、なんだかちょっと世間的には頼りないというか、取るに足らないものという雰囲気もあった。
だから、自分から進んで「小説家になります」と大々的に発表するほどの勇気はなかった。
何か作文の提出を促されるような機会があれば、その時に言おうと心待ちにしていたのだが、お父さんもすっかりその話を忘れているようだった。
そんな折、三越をやめて銀行に入った四谷の芳夫さんが、またしても「銀行の仕事は面白くない」と言い出したお母さんがその話を実家から聞いてきて、心配そうに僕たちに話した。
その時お父さんは、
「早いものだなあ。
しかし、むしろいい傾向じゃないか。
食べていくのに困らない身分の人間が、もっと意味のある生活をしようとしないなんて、それは嘘だね」
と、いつものように「金にならない仕事の素晴らしさ」を高らかに称賛したあとで、
「ところで源太郎はどうなんだい? もう将来の決心はついたのかい?」
と、夏休み前の約束を思い出して、その場に居合わせた僕に尋ねてきた。
「つきました」
と僕は、今しかないと思って元気よく答えた。
「ふうむ。
何になるつもりだ?」
「やっぱりお父さんのように、ペン(筆)一本で生きていきたいと考えています」
「そうかい。
新聞社へ入るのかい?」
とお父さんはニコニコしながら聞いた。
「いいえ、新聞社へは入りません」
「じゃあ、新聞記者じゃないのかい?」
「ええ、小説家になります」
と僕は淀みなくハッキリと答えた。
これくらいお金にならない仕事なら、お父さんの基準にも文句なしに合格するはずだと思って、内心ではすっかり得意になっていたのである。
「小説家? ふうむ……」
「嫌だわ、嫌だわ!
源太郎や、私はのらくら者が芳夫さんだけでもう十分困っているっていうのに、一体どういうつもりなの!」
とお母さんは案の定、猛反対した。
「小説家が必ずしも全員のらくら者とは限らないけれど、これはちょっと予想外だったな」
とお父さんも少し小首を傾げた。
「あなた、親の子供への影響(感化)って本当に恐ろしいものなんですねえ。
まだ十六や十七の子供が、小説家になろうかなんて言い出すんですもの!」
とお母さんは、まるで僕がとんでもない謀叛(むほん)でも企てたかのように言った。
「少し、俺の教育の薬が利きすぎたかな。
もちろん、大学へは行くつもりだろうね?」
「大学へ行って、文科(文学部)をやるつもりです」
「文科と決める前に、もう少しよく考えてみるさ」
とお父さんは賛成とも反対とも態度を明らかにしなかった。
「源太郎や、私はお前が法科(法学部)に入って、本郷の伯父さんのような立派な実業家になってくれるものとばかり思っていたよ。
ずっと前からそう頼んでおいたのにねえ」
とお母さんは、「文科に行く」と決めただけでも、すっかり期待を裏切られたような顔をした。
「でも、僕は商売なんて大嫌いだもん」
「嫌いなら仕方ないかもしれないけれど、文科なんかに行ったら一生貧乏し続けなきゃなりませんよ!」
「お金なんか、別に欲しくないもん」
と僕は自分の思った通りの本音を口にした。
「まあまあ、聞いていられませんよ!
お父さんの偏った家庭教育がすっかり行き届いている証拠ね。
あなた、普段からもっと世間並みのまともなことを言ってくれないと、子供たちがみんな危険思想にかぶれてしまいますよ!」
ふん、何を言うんだ。
これくらいの年齢のときからガツガツお金を欲しがるような子供だったら、それこそ大問題の危険思想ってものさ。
しかし、小説家とはね……俺の予想の一歩先を行っていたなあ。とはいえ、まったく方針がないよりは、何か目当てがあったほうがいい。
まあ、そのつもりで心構えをしておくさ」
お父さんは分からない出たとこ勝負のことは言わないという約束だったから、お母さんもそれ以上は仕方がなかった。
「心構えをするってあなた、本当に源太郎を小説家にするつもりなんですか?」
「なると言うなら、そうさせてやるさ。
しかし、これくらいの年頃の子供なんていろんなことを次々考えるものだから、今にまた気が変わるさ」
「どうかもっと地道な道へ気が変わってほしいものですわね」
お母さんも、僕の将来の志望がそんなに根の深いものだとは思っていなかった。
もっとも、六歳の頃に電車の車掌さんになりたがった日から、現在の創作家を目指すに至るまでには、実に数多くの変遷を経過してきたわけだが。
「お父さん、一体どういう風に心掛けたらいいんでしょう?」
「小説家になりたいのかい?」
「はい、そうです」
「小説家の修行は、第一に観察さ。
人間の性格や心理をありのままに描写するんだから、何はなくとも観察が大切だ」
お父さんは、隣でハラハラしているお母さんの顔色をそっと覗き込んだ。
「分かりました。
それから第二は何ですか?」
「第二も観察だ。
ディケンズなんかは子供の頃からものすごい観察家だったと自分で言っているくらいだからね」
「じゃあ第三は?」
「第三も観察だ。
お前は昔、鋳掛屋(いかけや=鍋や釜の修理職人)の仕事に見とれていて学校に遅刻したりしたことがあるくらいだから、小説家の資格が十分あるかもしれないぞ」
「第四もやっぱり観察でしょう?」
と僕は、きりがないので先回りして突っ込んでみた。
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