初級翻訳・親鳥子鳥 第16話

佐々木 邦

「いやぁ、自分で思っているほど、私の人相が良くないという証拠ですなぁ。来るたびにこの犬に吠えられてしまいますよ」
杉山さんは、いつもこんなふうにユーモアのある冗談を言う人でした。
「いいえ、先生がまだこの犬と仲良しになっていないからですよ」
僕はそう言って、先生をうまく立ててあげました。
「おやまあ、どうぞお入りください。またブル公に吠えられてしまいましたな。わざわざ取り次ぎを頼まなくても、あなたが来たのがすぐに分かって便利ですよ」
離れから出てきたお祖父さんは、杉山さんが来るたびに犬に吠えられるのが「お決まりのコース」だと言わんばかりに迎え入れました。

「犬が嫌いな人は、どこへ行っても犬に吠えられるものですが、お宅の犬はとりわけ恐ろしい顔をしていますなぁ。ふつうの犬と違って、顔も体もぜんぶ真四角ですからね。そのうえ、目のまわりに隈(くま)取りみたいな模様があって、どうも人相……いや、犬相が悪い。あれはまちがいなく外国の犬でしょう?」
「ええ、ブルドッグですよ」
「ぶる、と申しますと?」
「ブルドッグです」
「はぁー。ブルドッグと申すのは、外国の犬のことですかな?」
「イギリスで生まれた犬なんですよ」
「イギリスですか! 国の名前だけは合っていましたな。いやはや、私はこの歳になって、一つ新しいお勉強をさせてもらいましたよ。やっぱり、分からないことは何でも口に出して聞いてみるものですねぇ」
「はて、いったいどうなされたのですか?」
「いやね、私はヨーロッパ大戦の頃からずっと、この『ブルドッグ』というのは、イギリスのえらい将軍の名前だとばかり思い込んでいたのですよ! まさか犬の名前だったとは、いやあ驚きました。これぞまさに大発見ですなぁ。どうりで、昔のニュースなんかを聞いていて、時々話のつじつまが合わないなと不思議に思っていたのですよ。いやはや、すっかり感心してしまいましたよ」
杉山さんは、パタパタと扇子を鳴らしながら、お祖父さんのいる離れの部屋へと歩いていきました。

「オホホホホホ!」
お部屋のほうから、郁子と敏子が申し合わせたように、急に畳の上に顔をうずめて笑い出す声が聞こえてきました。
「お部屋の人たちに聞こえますよ!」
とお母さんが二人のことをたしなめましたが、自分でもこらえきれなくなって、「クックックッ」と小さく笑い始めました。
僕は「これはあとで、おもしろい人間観察の日記が書けそうだぞ」と思いながら、自分の勉強部屋へと戻っていきました。

「たとえ勘違いだったとしても、イギリスの将軍という見方は、あながちまちがいでもないかもしれませんよ。ブルドッグなんてものは、イギリスの将軍と同じで、見た目の迫力と威張っているところだけですからね。日本の誇る土佐犬の足元にも及びませんよ」
お祖父さんはひとしきり笑ったあと、得意の「日本びいき(国粋論)」の話を持ち出しました。
「一騎打ちをさせたら、イギリスがドイツに負けるはずがない」というお祖父さんの熱い信念が、あのブルドッグ将軍の勘違い話を聞いたことで、再び胸のなかで燃え上がってきたのです。
昔の武将である熊谷直実(くまがいなおざね)は、お坊さんになってからも戦の馬の足音を聞いただけで木魚をたたき割ってしまったという伝説がありますが、かつてドイツ流の教育を受けた人は、おじいさんになってもやっぱりドイツ流のままなのです。
お祖父さんは、何かにつけてイギリスという国が気に食わないのでした。あいにくドイツにはブルドッグに匹敵するような有名な犬種がいないので、お祖父さんは日本の土佐犬をひっぱり出してきて自慢するしかありませんでした。

「当時は、横文字のカタカナ言葉がやたらに流行りましたからねぇ、私のような昔人間はすっかり戸惑ってしまいますよ。ちょっと薬をひと包み買いに行くだけでも、まごついてしまいます。この前の夏なんかも、男爵家(だんしゃくけ)のきれいな植物園で、一大発見をしてしまったんですよ」
杉山のお爺さんは、行く先々でいつも何かと「大発見」をする人でした。
「はぁ、それはどんな?」
「ダリヤの花がそれはそれは見事に咲いていたので、『いやぁ、見事な花ですねぇ』と褒めてあげたところ、お屋敷の方は『では、来年の春に球根を分けて進呈しましょう』と仰ってくださいました。私は『これはご丁寧に、ありがとうございます』と謹んでお礼を申し上げました。しかし、園内をあっちこっちと見物して歩いているうちに、『ダリヤ(和名・天竺牡丹)』と書かれた立札が目に留まったのです。『ご主人、ダリヤというのは天竺牡丹でございますか?』と質問してみますと、『そうだよ』というお返事。天竺牡丹なら、もう昔から日本にあるお馴染みの花ですからね、いくら私のような無学な人間でもよく知っております。なにも恥ずかしがる筋合いはありません。立派な羽織袴を着たこの私が、ただの『天竺牡丹』の化け物(めずらしい外国の花だと思い込んでいたもの)をありがたく拝見していたのかと思うと、急にバカバカしくなってしまいましたよ。どうも最近の横文字というやつは、ただのハッタリや虚勢ばかりでいけませんな!」
「なるほど、おもしろいご観察ですな。世の中、何もかも西洋にかぶれていて、腹の立つことばかりですよ」
お祖父さんは、まさに自分の思っていた通りの話を杉山さんがしてくれたので、すっかり機嫌をよくしました。

「お料理にしても、西洋の『フライ』が日本の『天ぷら』だったり、『マカロニ』が日本の『うどん』だったりしますからねぇ、自分の目でホンモノの現物を見るまでは、うっかり感心することもできません。まさに『羊の頭を掲げて犬の肉を売る(見かけ倒しの詐欺)』、本当に油断のならない世の中になったものです」
「西洋のなかでも、ドイツあたりはまだマシですが、イギリスやアメリカをありがたがる連中には困ったものですよ。英米のやることなら何でも素晴らしいと思い込んでいるんだから、まったく手に負えません。ところで杉山さん、あなたは『麻雀(マージャン)』という遊びをご存知ですか?」
「あの、中国の賭け事ですか?」
「中国の賭け事は、なかなかルールが厳しいですなぁ。あれが最近、若い人たちのあいだですごく流行っているでしょう?」
「は大流行ですよ。よほど面白い遊びのようですね。男爵家なんかは、昔ながらの『お花見』の趣味をすっかりやめて、すっかり『麻雀』に宗旨変えをなさったくらいです」
杉山さんは、何かといえばすぐに「男爵家では〜」と話を合わせます。
「中国人の発明したものとしては、囲碁の次に面白い勝負事ですね。中国では、身分の高い人も低い人も、昔からずっとあれをやっています。日清・日露の戦争以来、日本人はさんざん中国のあちこちに乗り込んでいきましたが、当時は誰も『麻雀をやった』なんて話は聞きませんでしたな。あんなものは下等な遊びだと、みんな見くびっていたからです」しかし、それが一度イギリスやアメリカで流行りだすやいなや、どうでしょう、今や猫も杓子も麻雀に夢中ではありませんか。主体性のない、いい加減な話ではありませんか。隣の国の娯楽を、自分たちで面白さを見極めて取り入れる目利きができていないのです。

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