初級翻訳・親鳥子鳥 第35話

佐々木 邦

「何かしら?」
とお母さんが不思議そうに言った。
「鬼かな?」
と言いながら浩二が提灯をかざすと、格子戸が開いて、
「僕ですよ。あぁ、びっくりした」
と言って入ってきたのは、四谷に住む芳夫さんだった。
「福は内! 福は内!」
お祖父さんはさすがの機転を利かせて、すぐさま芳夫さんにめがけて豆を浴びせかけた。
これで、親戚の長男を鬼扱いしたなんて文句は言わせない。
「さあ、早く上がってくださいよ」
とお母さんが招き入れた。
「格子戸に手をかけようとしたとき、突然ものすごい大声が聞こえたものだから、びっくりして尻もちをついちゃったんですよ。そうしたらそこにブルが飛んできて、顔をペロペロ舐めるんだもの」
と芳夫さんはズボンのホコリを叩いたり、額の汗を拭ったりした。
それからお祖父さんは家中のあちこちをまわって豆をまき、最後に二階の座敷で、
「さあ、みんなしっかり拾うんだぞ!」
と豆の入った枡をしっかり持って身構えた。
子どもたちはみんな腹ばいになって待ち構えている。
「僕も拾います!」
と芳夫さんも仲間に入った。
「私も……」
と言って絹子さんもその隣にちょこんと座った。
続いて、
「鬼は外! 福は内!」
と、豆に混じってチョコレートやキャラメルがパラパラとあちこちに降り注いだ。
それを競争で自分のところに引き寄せるものだから、「キャッキャッ」と大にぎわいだ。
こうなると、勢いのある強いやつの勝ちになる。
お祖父さんがちょっと手加減したと見えて、
「ずるい、ずるいわ! 浩二と千代子のところばっかりに投げるんだもの」
と郁子から不満の声が上がった。
芳夫さんは野球をやっているだけあって、得意のスライディングの要領ですべり込み、ほかの人の陣地まで攻め込んでいく。
「鬼は外! 福は内!」
お祖父さんが一段と高い声で叫んで、豆まきが終わったとき、
「っとっと、これは失礼!」
と芳夫さんの慌てた声が聞こえた。
見ると、芳夫さんのチョッキのボタンが絹子さんの髪の毛に引っかかってしまい、二人とも身動きが取れなくなっていた。
無理に起き上がろうとすると髪が引っ張られて絹子さんが痛がるので、大事をとって四つん這いになったまま、
「おばさん、おばさん、助けてください!」
とヘルプを求めた。
「まあまあ」
とお母さんがやってきて、ほどくのにちょっと手間取った。
髪の毛とボタンの網目がすっかり絡み合っていたのだ。
「本当に突然で失礼いたしました。痛くなかったですか?」
と芳夫さんは何度も謝った。
「いいえ……」
と会釈した絹子さんは顔をまっ赤にしていたが、
「あらまあ! せっかく拾ったお菓子が、みんなほかの人に取られちゃったわ」
と気づいて声をあげた。
「僕のもないや」
と芳夫さんも驚いた。
「チョコレートが41個、キャラメルが53個、それに豆がこんなにたくさん!」
と浩二は嬉しそうに数えていた。
絹子さんの分は千代子が代わりに拾ってくれたらしく、こちらも郁子や敏子よりはずっとたくさん手に入っていた。
「実にすばしっこいねえ。この調子なら社会に出てもちゃっかりやっていけるぞ」
と言って、お父さんは笑っていた。
子どもたちはあらかじめ用意していた紙に戦利品を包み、大喜びしながらお茶の間へと駆けていった。
「どうぞごゆっくり」
とお祖父さんも部屋を去り、あとにはお父さん、お母さん、芳夫さん、そして僕が残された。
「ここは寒いから書斎に行きましょう。源太郎、その座布団を持って行きなさい」
お父さんは、芳夫さんの相手をする僕を引き留めておくつもりだったのだろう。
「今夜はなんだかドジばかり踏んでしまって……」
芳夫さんは書斎の火鉢のそばに座り、恥ずかしそうに頭をかいた。
「随分子どもの顔を見ていなかったけれど、みんな元気にしてる?」
とお母さんが尋ねた。「みんな元気いっぱいです」
「こちらは一月中はずっと病人が続いて大変だったよ」
「いったい誰が悪かったんですか?」
「郁子と千代子、それにさっきのあの娘さんが、なかなか重い風邪をひいてね」
「そうでしたか。
あれはどちらの方なんですか?」
「郷里の本家のお孫さんだよ。
きれいでしょう?」
「きれいですねえ」
「芳夫さん、いっそお嫁にもらったらどうだい? お嫁さんを探しに出てきたんだからさ」
とお父さんが冗談を言った。
「本気ですか?」
「本気さ」
「本気ですけど、芳夫さんのように来るたびに仕事が変わる人はダメだわ。
私、あなたの顔を見ると、また何かやらかしたんじゃないかって思っちゃうのよ」
「実はそのことでご相談に来たんです」
「いやですよ、やめてくださいよ」
「とにかく背水の陣をしつつもりで、もう辞表を出してしまったから仕方ありません」
「それじゃ相談でも何でもないじゃありませんか」
「何か当てでもあるんですか?」
とお父さんも、あまりに頻繁に職を変えるものだから少し驚いたようだった。
三越デパートは三か月、今度の銀行は半年で辞めている。
「教育界に入ろうと思っています。
実は学校を卒業するとき、研究生として残らないかとある教授が勧めてくれたんですが、僕よりもっと成績のいい人が大勢いましたから、遠慮していたんです。
ところが、この間その教授に会ったら、来るなら都合をつけてやるとおっしゃるんですよ」
「それはいいね。
それで、もうその話は決まったのかい?」
「まだです」
「決まってから辞表を出しても遅くはないのにねえ」
と実業界の大好きなお母さんは残念がった。
「しかし、見すみすほかのところへ逃げるつもりで働き続けるのは、気がががとがめますからね」
「お父さんやお母さんにはご相談したの?」
「ええ。
もう呆れられて、どうにでも勝手にするがいいとおっしゃっています」
「そうでしょうねえ」
「けれども叔母さん、家に多少お金があるのを当てにして、僕がフラフラしているように思われちゃ困りますよ。
僕は自分の力でやっていく決心なんです」
「その精神さえあれば結構だよ」
とお父さんは芳夫さんのことをよく理解している。
「家賃だけで食べていくような生き方は、大屋根のデコボコみたいなもので不安定なものさ。
何か仕事をするよ。
額に汗を流して食べていくんだ。
しかし、僕は金儲け専門で働く気にはどうしてもなれない。
同僚たちは本当にひどいんですよ」
「何がひどいの?」
「一にも金、二にも金です。
お金があらゆるものの基準なんです。
あの男はこのごろ人間としてレベルが上がったと言うから、何かすごいことでもしたのかと思うと、お金を儲けたってことなんです。
金=人格なんですよ」
「それもちょっと極端ねえ」
「とても鼻につきますよ」
「学校の先生といっても、芳夫さんの場合は大学だからね」
「そうです」
「それなら勉強次第で博士になれるわよ」
「なったってつまらないです」
「仕様がないわねえ。
お金も名誉もいらないんじゃ、あまり欲がなさすぎますわ。
まあまあ、ゆっくりお話しなさい」
とお母さんは階下へ降りていった。
「その学校のほうの話が決まるといいですな」
「大丈夫、決まりますよ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました