ありがとうございます。さようなら」
と、僕はなんだか面白おかしくなった。
それから一時間もしないうちに、玄関で声がした。
僕が部屋を出て行くと、芳夫さんはすでに茶の間に上がり込んでいて、
「やあ源太郎さん、代数を見に来たよ」
と、あっちこっちを見回していた。
もちろん、茶の間に代数の問題がいるわけはない。
「まあ! よくいらっしゃいましたね」
とお母さんが台所から現れた。
「叔母さん、今日は家庭教師です。源太郎さんが代数を見てくれって電話をかけてきたから、急いでやって来ましたよ」
と、芳夫さんは誤解されないようにきっぱりと言った。
郁子と敏子も挨拶に出てきたけれど、絹子さんだけは姿を見せなかった。
「僕の方からお伺いするつもりだったんですが……」
「いや、構わないさ。銀行をやめて暇だからね。何なら毎日見に来てもいいくらいだ」
「それではさっそくお願いしましょうか?」
と、僕は芳夫さんを母屋の離れへ案内した。
「やあ、芳夫さん、よくおいでくださいました」
と、縁側で蘭の鉢をいじっていたお祖父さんが声をかけた。
「お変わりもございませんか? 今日は源太郎さんの代数を見に上がりました」
とここでもまた説明してから、芳夫さんは僕の勉強部屋に入ってきた。
「すごく早かったんですね?」
と僕は内心ちょっと申し訳なく思っていた。
「これが僕の家からの特急記録ってやつさ。電車運がよかったから、無駄な時間がまったくなかったんだ」
「お家の前で、走っている電車に飛び乗りをなさったでしょう?」
「よく知っているね。乗り換えも飛び乗りさ」
「危ないじゃないですか」
「なに、大丈夫さ。ところで代数だがね、僕のこの頭はすこぶるあやふやなものだぜ。受験のころはそれなりにやったけど、もうすっかり忘れてしまったよ」
と、芳夫さんは早くも弱音を吐いた。
「そんなこともないでしょう」
「まあ、やってみようか。どれだい? できるだけ簡単なやつにしてくれよ。なにせ相手は大変な先生だからね?」
「これですよ」
と僕は手当たり次第に一問指し示した。
あとで気づけば、それは自分一人でも解ける問題だったのだけれど、今日の目的はあくまで彼の観察にあるのだ。
しかし芳夫さんは、その問題を解くのに三十分もかかってしまった。
「どうもいけない。こんなに手間取っちゃ、家庭教師は辞退させてもらうよ」
「いいえ、結構ですよ」
「英語なら自信があるんだけど、数学はダメだな」
と、芳夫さんはもともと代数のために来たわけではないし、僕も勉強はあくまで口実にすぎなかったので、そこからそのまま雑談を始めた。
「慶応大学のほうは決まったんですか?」
「決まったとも。今度は大いにやるぞ。ところで源太郎君、母さんがこの間そっちへ来て、君が大きくなったのって驚いていたよ。僕にそっくりだってさ」
「そうですかねぇ」
と僕は少し疑問だったけれど、
「いとこ同士だから似てるんだろ。郁子さんと、ほら、あの絹子さんとだってすごく似てるぜ」
と、芳夫さんも絹子さんと同じように僕を利用して、さっそく本題へとたどり着いた。
縁談を控えた男女というのは、いつだって相手のことが気になってしかたないものなのだ。
「でも、絹子さんと僕たちはまたいとこですよ」
「そうそう。お父さん同士がいとこなんだよね。それにしてもよく似てるよ」
「顔よりも声が似ていますよ。ほら、あれが郁子です。今のが絹子さんです」
と僕は、縁側伝いに聞こえてくる母屋の話し声にそっと耳を澄ませた。
「ああ、あれだね。笑ってる、笑ってる」
と家庭教師の先生は、すっかりその声に聞き惚れてしまっていた。
「芳夫さん、面白いものをお見せしましょうか?」
と、僕は絹子さんと僕が一緒に写っている新聞写真の切り抜きを机の引き出しから取り出した。
「やあ、絹子さんと君だね?」
「ええ、年末に銀座を歩いていたら、偶然そこの新聞社が写真を撮ったんです」
「よく写ってるよ」
と、芳夫さんは写真をいつまでも手から離そうとしなかった。
「もう一つ切り抜きがあります。今度は記事ですよ」
と言って、僕は小さな紙切れを渡した。
「おやおや、これは驚いた。いったいどこの新聞に出たんだい?」
と、芳夫さんは飛び上がるほど面食らった。
無理もない、そこに書かれていたのは――
「新郎・芳夫君は東京市市会議員・畑孫一郎氏の長男、慶応大学卒業の秀才にして同大学少壮教授。新婦・絹子さんは静岡県浜松在の素封家・大内長平氏の長女、浜松高等女学校卒業の才媛にして現代的美貌の持ち主なり」
というものだったからだ。
「ハッハハハハ。これ、僕が作ったんですよ」
「でも、これ全部新聞の活字じゃないか?」
「新聞の活字をあっちこっちから切り集めて貼ったんです。うまくできたでしょう? まだ電気がついてなくて薄暗いから」
と、僕は得意満面だった。
明るい時間に見せたら工作だとバレてしまうので、この暗くなる時機を見計らっていたのだ。
「なるほど、ちゃんと貼ってある。手の込んだ悪戯をするもんだね」
「半日かかりましたよ」
「そんなことに時間を潰していると、入学試験に落第するぞ」
と芳夫さんは窘めつつも、
「この二つは参考のために貰っておくよ」
と言って、そのまま没収してしまった。
「芳夫さん、この間絹子さんがあなたのことを訊いていましたよ」
と、僕は電燈をパチリと点けてから、再び話を持ちかけた。
「なんて?」
「いろいろですよ」
「いろいろって、どんなことさ?」
「どうしてそんなに頻繁に職業を変えるんですかって」
「ふうむ……」「君はなんて言ったんだい?」
「『あの人は本当に名人です』って答えましたよ」
「そいつはひどいな。それから?」
「それから芳夫さんは、『今までに何か噂の悪いところはなかったか?』って訊いてきました」
「いやあ、勘弁してくれよ!」
「『学生時代に、ちょっとお金のことで一週間ほどお家を離れていたことがありましたよね?』って言いました」
「それをペラペラ喋ったのかい?」
「いいえ、悪いことは黙っていたほうがいいと思ったので……」
「だけど源太郎さん、あれは友人の借金の保証人に名前を書いただけのことでさあ」
「だから、人柄はすごくいいですよって保証しておきましたよ」
「おやまあ。それから?」
「それぐらいのものですね」
「ふう、安心したよ」
「もう話はかなり進んでいるんでしょう?」
「何のって?」
「決まってるじゃないですか、縁談ですよ」
「ハッハッハ! 君、知ってるのかい?」
「知ってますよ!」
「それじゃあ話すけど、もうほとんど決まりかけてるんだ。近いうちに絹子さんのお父さんもこっちに来る予定さ」
そりゃあすごい!
「そうですか。それはおめでとうございます!」
「あの節分の日に行った豆まきのおかげさ」
「あれで決心がついたんですか?」
「まあそうでもないけれど、あんなドジを踏んで失敗したぶん、かえって印象が深く残ったんだよなあ。家に帰って母に話したら、『もしかしたら縁があるのかもね』って笑ってさ。
初級翻訳・親鳥子鳥 第38話
佐々木 邦
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