初級翻訳・論語物語 第32話

下村 湖人

顔刻はその音を聞くたびに、眼玉をきょろつかせて、みんなの顔を見まわした。子路は再び部屋に戻ってきて言った。
「先生は、こちらからあまり刺激するようなことはしないで、静かに待っている方がいい、と仰せられている。
ただ先生が心配しておられるのは、顔淵(がんえん)のことだ。」
顔淵は、一行におくれて、その日の夜遅くに匡(きょう)の町に到着することになっていたのである。
「そうそう。顔淵のことはすっかりうっかりしていた。もうそろそろ着くころだが、事情を知らないで、うかうかとわれわれの宿を探しでもすると、とんでもないことになるかも知れないね。」
「用心深い男だから、滅多なことはないと思うが……」
「それにしても、まさかこんな事があろうとは、夢にも思っていないだろうからね。」
「何とか方法を講じなくてもいいのか。」
「方法って、どうするんだ。」
「誰かこっそり城門の近くまで行って……」
「そんなことができるものか、こうして厳重に取り囲まれているんでは。」
「いっそわれわれの方から、先方の隊長に直接掛け合ってみるのも一つの方法だね。」
「さあ、それもかえって藪蛇(やぶへび)になるかも知れない。」
門人たちは、口々にそんなことをいって、ざわめき出した。
それまで一言も発せず、腕組みをしながら考え込んでいた閔子騫(びんしけん)が、この時はじめて口を開いた。
「顔淵は我々より知恵がある。先生もきっと、顔淵のためにわれわれが余計な細工をすることを好まれないだろう。」
冉伯牛(ぜんはくぎゅう)と仲弓(ちゅうきゅう)の二人も、最初から沈黙を守っていたが、閔子騫の言葉が終わると、いかにもその通りだというように、深くうなずいた。
すると子路が言った。
「実は先生の御意見もそのとおりだ。心配はしておられるが、こちらで下手に動くより、本人に任せたほうがかえって安全だ、と仰せられているんだ。」
みんなは、孔子が顔淵を信頼している度合いが非常に深いことをよく知っていた。
彼らの中には、孔子がかつて、
「顔淵は終日私と話していても、ただ私の言うことを聴いているだけで、一見愚かなように見えるが、そうではない。彼は黙々たる自己建設者だ。どんな境遇に処しても常に自分の道を発見して誤らない人間だ。彼は決して愚かではない。」
と言っていたことを思い起こす者もいた。
だから、誰も孔子の意に反してまで、顔淵のために何か手段を講じようとは言い出さなかった。
「すると、今夜は結局何もしないで、このまま寝るより仕方がないのか。」
「なんだか落ち着かないね。」
「僕は寝たって眠れそうにないよ。」
みんなはそうした不安な気持ちを語り合いながら、それからもしばらく起きていた。
しかし、いつまで起きていても仕方がないので、門外の様子に気を配りながら、やっとめいめいの床についた。
眠れない一夜が明けた。
兵士たちの足音は夜通し聞こえた。
そして顔淵はついに姿を見せなかった。
ところで、包囲は翌日も、翌々日も解けなかった。
門人たちの不安は、刻々につのっていくばかりであった。
孔子をはじめ、五、六名の高弟たちは、さすがに落ち着いているような様子を見せてはいたが、顔淵の消息がまったくわからないのには、彼らもすっかり困り果てていた。
時として、孔子の口からさえ、ため息に似たものがかすかに漏れることがあった。
それを見ると、門人たちはいよいよ居たたまれなくなった。
子路は少し気短かになってきた。
孔子は絶えず彼の様子に気を配り、できるだけ彼の気持ちを落ち着かせようと努めた。
そのために、彼はしばしば楽器を奏で、歌を歌い、子路に合唱を命じたりした。
四日目の夜更けであった。
孔子と子路とが門人たちに囲まれて、例によって歌を歌っているところへ、ひょっこり顔淵が戸口に姿を現した。
さすがの孔子も、歌を歌い終わるまで我慢ができず、飛びつくように彼のほうへ駆け寄った。
「おお、よく無事でいてくれた。わしはもうお前が死んでしまったのではないかと思っていた。」
顔淵は、目にいっぱいの涙をためて答えた。
「先生がまだ生きていられるのに、私だけがどうして先に死なれましょう。」
みんなもその時は総立ちになっていたが、二人の言葉を聞くと、絵のようにしーんと静まり返って、動かなかった。
「まあお座り。」
孔子は手をとるようにして顔淵に席を与えた。
そして、この三日間どこでどうしていたか、また、どうして包囲を破って無事に家の中に入ることができたのかを尋ねた。
顔淵は答えた。
「あの晩城門を入ると、すぐに大体の様子がわかりましたので、そ知らぬ顔をして別に宿をとることにしました。そして、先生の一行が衛から陳に行く途中、ここを通られたはずだということを、この四日間、できるだけ住民に言いふらしました。そのうちに、こちらのお宿から(孔子の教えをたたえるような)歌の音が聞こえ出したのです。その時は何とも言えない気持ちでした。住民の中にも、その音を聞いて、これは陽虎ではない、陽虎にあんなすぐれた音楽ができるはずがない、などと言う者も出てきたようです。」「だから私もすっかり安心しまして、思いきって隊長さんに事情を話して、中にいれてもらうようにお願いしたんです。そうしたら、案外すんなりと承知してくれましたよ。
もっとも、『中に入るのはいいけれど、一度入ったら、二度と外に出られないかもしれないぞ』なーんて、おどかされちゃいましたけどね……」
お弟子さんたちは、安心したような、まだ心配なような、なんともいえない顔でお互いの顔を見合わせました。
先生である孔子は、久しぶりにパッと明るい笑顔になって言いました。
「これで、みんなの顔がそろったね。
これからどうなっちゃうとしても、みんなが一緒だと思えば、なんだかすごく心強いよ。
今夜はみんなでゆっくり体を休めようじゃないか」
孔子がそう言って、よいしょと立ちあがろうとした、その時でした。
お屋敷の門のあたりで、急に「わあわあ」と怒鳴り合う声が聞こえてきたのです。
「陽虎だ! どう言ったって、あいつは絶対に陽虎にちがいないんだ!」
「おいおい、万が一にも、もしあいつらが孔子さまたちの一行だったらどうするんだよ?」
「万が一もクソもあるもんか!
俺たちの家財も大事な娘も、みんなめちゃくちゃにしやがったのはあの陽虎だろ!
あいつの憎らしい顔はな、この俺の目にしっかり焼きついちゃってるんだよ!」
「そりゃそうかもしれないけどさあ……。
でも、あと一日だけ待とうぜ。せっかく今までみんなで我慢してきたんだからさ、明日まで待ってくれよ」
「明日まで待ったら、ちゃんとうちらに引き渡してくれるんだろうな!?」
「そりゃあ、隊長さんの命令次第さ!」
「それ見たことか!
そんなはっきりしないことで、俺たちをごまかそうたって、そうはいかないからな!」
「ごまかしてるわけじゃないって!
いま一生懸命、調べてる最中なんだよ。

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