初級翻訳・論語物語 第31話

下村 湖人

そして、この事があってから間もなく、晉の国の趙簡子が、孔子を迎えるために、わざわざ衞の国に使者を遣わした時、彼は国境まで孔子を見送って、一語でも多くその教えをうけることにつとめた。

1 子陳に在りて曰く、帰らんか、帰らんか。
吾党の小子、狂簡にして、斐然として章を成す。
之を裁する所以を知らずと。
(公冶長篇)
2 子、衞の霊公の無道なるを言う。
康子曰く、夫れ是の如くば、奚ぞ喪わざると。
孔子曰く、仲叔圉は賓客を治め、祝※は宗廟を治め、王孫賈は軍旅を治む。
夫れ是の如し、奚ぞそれ喪わんと。
(憲問篇)
3 子曰く、其の以す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察せば、人焉んぞ廱さんや、人焉んぞ廱さんやと。
(爲政篇)

匡の変

子|匡に畏す。
顔渕後れたり。
子曰く、吾女を以て死せりと為せりと。
曰く、子|在す。
回や何ぞ敢て死せんと。
――先進篇――

子匡に畏す。
曰く、文王既に没して、文茲に在らずや。
天の将に斯の文を喪さんとするや、後死の者斯の文に与るを得ざるなり。
天の未だ斯の文を喪さざるや、匡人其れ予を如何せんと。
――子罕篇――

「そうです、今思うと、このまえ陽虎の供をして来た時には、あそこからはいったのでした。」
顔刻は、御者台から策をあげて、くずれ落ちた城壁の一角を指しながら、孔子にいった。
孔子の一行は、衞を去って陳に行く途中、今しも匡の城門にさしかかったところである。
――匡は国境に近い衞の一邑である。
「あの時は、陽虎もずいぶん乱暴を仂いたそうじゃな。」
孔子は、車の窓からあたりの景色を眺めながら、感慨深そうにいった。
――陽虎というのは、魯の大夫季氏の家臣であったが、陰謀を企てて失敗し、国外に逃れ、匡に侵入して暴虐を仂いた男である。
「ええ、全く無茶でした。
掠奪はするし、婦女子は拘禁するしで、今でもさぞ匡の人たちは怨んでいることでしょう。」
「お前も、その怨まれている一人じゃな。」
「お恥かしい次第です。
しかし、あの時はどうにも出来なかったのです。
供をするのを拒みでもしたら、それこそ命がなかったのですから。」
「で、お前も一緒になって、何か乱暴をやったのか。」
「とんでもない事です。
乱暴をやらなかったことだけはお信じ下さい。
私が陽虎のところを逃げ出したことでも、それはおわかり下さるでしょう。」
そんなことを話しながら、間もなく一行は城門を入って、豫定の宿舎についた。
しばらくは何事もなかった。
ところが、夕飯をすまして一同がやっと寛ろぎかけたころ、門外が急にざわつき出した。二三人の門人たちが、不思議に思ってかけ出して見ると、いつの間にか、塀の周囲は、武装した兵士ですっかり取り囲まれていた。
「どうしたのです。」
門人の一人が、おずおず門のすぐわきに立っている兵士に訊ねた。
兵士はぎろりと眼を光らしたきり、返事をしなかった。
そして、他の兵士に何かひそひそと耳うちした。
耳うちされた兵士は、二三度うなずくと、すぐどこかに走って行ってしまった。
門人たちは、うす気味悪く思いながらも、しばらくあたりの様子を見ていた。
すると、さっき耳うちされた兵士が、隊長らしい、いかつい顔をした髯男と一緒にもどって来た。
「命令があるまでは、この家から一人たりとも門外に出すのではないぞ。よいか。」
いかつい顔が、近くにいる兵士たちを睨めまわしながらいった。
ついでに彼は、孔子の門人たちの顔を、一人一人、穴のあくほど見つめた。
門人たちはまだわけが解らなかった。
しかし、自分たちに関係のないことではないらしい、ということだけは、おぼろげながら推察が出来た。
で、彼等は急いで門内にはいって、みんなにその様子を報告した。
「なあに、われわれに関係したことではあるまい。或は何かも間違いかも知れないが。……とにかく、みんな静かにおやすみ。用があれば、今に何とか先方からいって来るであろう。」
孔子は、事もなげにそういって、自分の室に引きとった。
みんなは、しかし、落ちつかなかった。
ことに顔刻は、不安そうな顔をして、何度も窓から外をのぞいた。
「よし僕が真相をしらべて来る。」
子路がたまりかねて、剣をがちゃつかせながら、一人で門外に飛び出した。
間もなく彼は帰って来たが、かなり興奮していた。
「馬鹿馬鹿しい。あいつらは、先生を陽虎と間違えているんだ。」
「なに、陽虎と?」
門人たちは、みんな呆気に取られた。
「そうだ。今日車の中に、たしかに陽虎が乗っているのを見たというんだ。」
「驚いたね。」
「しかし、無理もない点がある。何しろ、先生のお顔は、われわれが見ても、どうかしたはずみには、陽虎そっくりに見えるんだから。」
「それにしても、少しひどいよ。お供の様子を見ただけでも、大抵わかりそうなものじゃないか。」
「ところがそのお供にも、大きな責任があるんだ。」
「何だ、われわれにか。」
「いや、みんなというわけではない。実は顔刻が御者台にいたのが間違いのもとさ。」
「なるほど。また陽虎の供をして来たと思ったんだな。それに先生のお顔が陽虎そっくりと来ているんでは、疑われるのも無理はない。」
顔刻は、気ぬけがしたような顔をして、みんなの話をきいていた。
「しかし、孔子の一行だということを話したら、すぐわかってくれそうなものじゃないか。」
「ところが、そう簡単に行きそうにないんだ。何しろこの土地では陽虎に深い怨みがあるし、うっかり欺されて逃がしてしまったら、住民が承知しないというんだ。」
「でも、先生に顔を出していただいたら、まさか飽くまでも陽虎だとはいうまい。」
「それがあてにならないんだ。何でも、この土地で陽虎の顔を一番よく知つている簡子という男が、先生を陽虎だと言い張らしいのでね。」
「では、どうすればいいんだ。ぐずぐずしていると、今に乱入して来るかも知れないぞ。」
「いや、そんな乱暴は滅多にはやるまい。ほんとうの孔子の一行に、無礼があってはならないということは、よくわかっているので、今は大事をとっているところらしい。」
「それにしても、邑内に先生のお顔を知っている者が、一人ぐらいはいそうなものだね。」
「それがいると問題はないのだが、困ったことには、顔刻や陽虎の顔は知っていても、先生にお目にかかった者が一人もいないというんだ。」
「で、結局どうしようというのかね。」
「孔子の一行だということがはっきりするまでは、このまま閉じこめて置く考えらしい。」
「おやおや。で、一たい、いつまで待てばいいんだ。」
「少くも調査に三四日はかかるだろうといっていた。早速方々に人を出しているそうだ。」
「馬鹿馬鹿しい。そんなのんきな話があるものか。」
「仕方がない。これも天命だろうさ。しかし、あまり永びくようであれば、こちらにも決心がある、と、そういっておいた。」
「うむ、それはよかった。」
「ところで先生はもうお寝みかね。」
「まだだと思うが……」
「とにかく、先生にも一応事情をお話しておこう。」
子路はそういって孔子の室に行った。
門人たちは、子路が去ると、急に默りこんで顔を見合せた。
塀の外からは、おりおり兵士たちの叫び声や、佩剣の音が聞えて来た。

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