初級翻訳・論語物語 第36話

下村 湖人

しかし、葉公にとって、臣下からのそのような激励は一種の侮辱でしかありませんでした。
彼は妙に反発心を覚えました。
(今に見ていろ、一ぺんであの孔子をギャフンと言わせてやり、へこませてみせるからな!)
けれども、孔子を言い負かすような立派な政治上の意見など、彼の頭の中のどこを探しても一片たりとも用意されてはいなかったのでした。
そして、いらいらと焦る気持ちを抱えたまま、十日、十五日という月日がただただ過ぎ去っていくのでした。そのうちに、真面目な重臣たちは、うわさのなりゆきを考えて、自分たちだけでも孔子に会っておいたほうがいい、と考えました。
そこで、代わる代わる孔子の宿を訪ねては、教えを乞いました。
若い臣下たちや、まだ自分の進む道を見つけられずにいる青年たちも、それに倣いました。
あっという間に、孔子の家の前はまるで市場のように人でいっぱいになりました。
そして彼の評判は、日に日に高くなっていくばかりでした。
こうした状況はすべて、葉公(しょうこう)にとってますます不利なことでした。
ついに誰からともなく、
「葉公には、どうしても聖人に会えないような、やましい理由があるにちがいない」
というような声が、まちのあちこちでささやかれるようになりました。
真面目な重臣たちは、これをそのままにしておくわけにはいかないと思い、人々のうわさを取り締まると同時に、思い切って葉公にもそのことを直談判しました。
葉公は、もちろん面白くありませんでした。
そして本当は、
「勝手に孔子なんかを訪ね歩いたお前たちこそ、その責任を負うべきだ!」
と怒鳴りつけたかったのです。
しかし彼は、むかつく胸をやっとの思いで抑え込み、臣下たちに「孔子という人間について、自分たちはどう見てきたのか」を語らせることにしました。
その話の端々から、何か一つでも孔子の欠点だと思えるようなボロを見つけ出そうと試みたのです。
しかし、彼のこの試みはまったくの無駄骨に終わりました。
臣下たちは口々に、まるで夢中になったように孔子を褒めそやすばかりだったからです。
(まったく、バカな連中め……)
彼は心の中で、無理やりそう捨てぜりふを吐きました。
しかし、そう思ったからといって、それが孔子との会見を正面から断る理由にはどうしてもなりませんでした。
「お前たちがそこまで言うほど立派な人物だと言うなら、会ってやろう。だがな、わしと政治の意見で勝負をして、もしわしが勝ったら、今後は一人たりとも二度と孔子の門に出入りしてはならんぞ!」
葉公は、内心では何の自信もなかったのに、そんな強がりを言ってしまい、ついには孔子と会う約束をしてしまったのです。
約束の日は、なんと翌日に決まりました。
その日の夜、葉公が味わった苦しみは、本当に惨めなものでした。
これまでの自分の政治経験を振り返り、少しも恥ずかしくないような立派な実績を探し出そうとしたのですが、それが非常に難しかったのです。
ただ彼には、一つだけ自信を持てることがありました。
それは、きつい厳罰主義で臨んでいるおかげで、国じゅうに法律がしっかりと行き届いているということでした。
けれども、人々がその厳罰主義を心から嫌がっていることも彼はよく分かっていたので、それを大っぴらに自慢するわけにはいきませんでした。
「できれば、その厳罰主義のことは口に出さずに、まるで人々が自分から進んで法律を守っているかのように見せかける、そんなうまい言い訳はないものだろうか……」
彼は頭を悩ませました。
そのときふと、数ヶ月前に役人から受け取った報告の中に、ものすごく感心すべき事件があったことを思い出しました。
(そうだ! あれは本当に珍しい事件だった。あれなら誰が聞いたって、この国の民衆が法律を守る気持ちであふれている結果だと思えるにちがいない。なんたって、親子の関係さえも乗り越えて、国法を守ろうとしたのだからな!)
夜が明けると、彼はさっそく担当の役人を呼び出し、もう一度その事件の詳しい内容を書面で調べさせました。
書類には、次のようなことが書かれていました。
「ある男が、隣の家から迷い込んできた羊を、しれっと自分のものにしてしまいました。しかし、その羊が本当に隣家のものであると証明できる証拠は、どこにもありませんでした。そのため、この事件は、隣の家の言いがかりなのだと片付けざるを得なくなっていました。ところが、その羊泥棒をした男の息子が、わざわざ役所にやって来て、『国の法律は曲げられてはなりません! 私は正直であることが何よりも好きなのです!』と言って、羊が迷い込んできた当時の事情を包み隠さずすべて白状したのです。役所では、法律に従って厳重にその男(父親)を罰すると共に、正直に名乗り出た息子には、決められた通りの褒美を与えることにしました」
葉公は、その息子が言ったという、
「国法は曲げられません、私は正直を愛します」
という言葉を、特に深く心に刻みました。
そして、その言葉を何度も心の中で繰り返しながら、孔子と会う時刻をじっと待ち続けたのです。
いざ葉公が孔子をひと目見たとき、まず意外に思ったのは、そのすっかり老け込んだ姿でした。
六十をさらに五、六年も過ぎていると思われるその顔は、太陽に焼かれて黒ずんでいました。
着ている服もよれよれで、いかにもみすぼらしかったのです。
おまけに、物腰が拍子抜けするほど穏やかで、葉公のこれまでの想像を完全に裏切っていました。
彼は、自分ひとりだけがこれまで意気込んでピリピリしていたのが、なんだか急にばかばかしく思えてきました。
そこで、急に気持ちが軽くなり、早口な調子でこう尋ねました。
「せっかく遠いところ、我が国にお立ち寄りくださいましたので、本日は『政道(政治のあり方)』についての先生のお考えをぜひ伺いたいと存じます」
孔子は、葉公のその軽々しい話しぶりを、なんだか頼りなげな様子で聞いていましたが、しばらく間を置いてから、ゆったりと落ち着いた声で答えました。
「あなたの領内に住む、すぐ近くの人々を、心から喜ばせてあげなさい」
葉公は、チクリと胸を刺されたような気がしました。
しかし、どこの国に行っても、この男はいつも同じような綺麗ごとばかり言っているのだろうと思うと、少しおかしくもありました。
「我が国の人民は、みな喜んで日々の仕事にはげんでおります。とりわけ、都の近くに住む者たちはなおさらでございますよ」
葉公は無造作にそう言い返しました。
すると孔子は、すかさずこう言いました。「さすれば、遠くの人は、あなたの人徳を慕って、どんどんお近くに引っ越してくることでしょうな。」
葉公は、それとはまったく反対に、自分の支配が及ばない国境の外へと引っ越していく者が、このごろやけに多いことを思い出し、ハッとしてぎょっとしました。
そして、このおじいさん、見た目によらず相当いろいろな事情を知っているな、と思いました。
「いやはや、これには参りました。
私の国はまだそこまでの境地には至っておりませんので、今後はもっと気をつけたいと存じます。」
彼はそう正直に白状するより仕方がありませんでした。

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