わしは、しかし、節だけはわかったが、まだ拍子が十分のみこめないので、そういって当分その曲だけをつづけて練習することにした。
ところが、また十日もたつと、『拍子もそれで十分だ、次の曲にしよう。』という。
しかし、わしには、まだその曲の気持がわからない。
で更に十日ほど練習した。
すると、『もう気持もわかったようだ、いよいよ次の曲にしてはどうだ。』という。
それでもわしは、その気持を出した作曲者の人物がわかるまでと思って頑張っていた。
すると、襄子がある日、非常に驚いたような顔をして、わしの琴を弾いている様子を見ていたが、『もうきっと作曲者の人物までわかったに相違ない。』というのじゃ。
わしはその時、静かな深い気持になっていた。
そして色の浅黒い、面長な、大洋の果を望んでいるような眼付をした、王者のような人の姿を思いうかべていたのじゃ。
わしは、これはきっと文王に相違ないと思った。
で、そういうと、果して、その通りであった。」
門人たちの眼は輝いた。
彼等は、孔子が音楽の間に見た文王の姿を、そのまま孔子自身の姿において見出していたのである。
「先生、襄子自身は、それが文王の曲であると知りながら、文王の姿を見るまでには到っていなかったのでしょうか。」
と、一人の門人がたずねた。
「そこじゃ、わしがもう一息というのは。
襄子は何といっても、まだ音楽を技術として愛していたに過ぎない。
文王の姿を見、文王の気持をつかむには、ただの技術では駄目なのじゃ。
真に道を愛し、道を求むる心、つまり人生を開拓する心があって、はじめて文王の曲がわかるというものじゃ。」
「襄子はあとで先生に弟子の礼をとっていた、という噂をきいたことがありますが、それは、そんな事があってからの事なんでしょうか。」
孔子は一寸苦笑した。
しかし、何か思いかえしたように、
「うむ、襄子はなかなか謙譲な人であった。
その時も、急に席を下って、わしを再拝したのじゃ。
あの気持で、もうしばらく生きていて貰うと、真に古今の名人になることが出来たのじゃがな。」
しばらく沈默がつづいた。孔子は、叔魚、子木、子旗、子羔といったような、四十歳前後の門人たちの顔を、しばらく見まわしていたが、
「わしは、三十歳から四十歳までの間が、今から考えると、精神的に一番苦しんだ時のようじゃ。
三十そこそこで、世間からは礼の大家だと云われ、顕門の子弟でわしに礼を学ぶ者も多かったので、自然心が増長しそうになって来た。
それに、一方では、自分の修めた学問が、どうやら知識の学問でしかないような気がし出して、不安でたまらない。
内心に不安を感じながら、世間的に権威をおとすまいとするほど、いやな気持のすることはないものじゃでのう。
自分を笞ち、笞ち、今日までどうなり正しい道を踏みはずさないでは来たものの、その頃は事毎に迷うことばかりで、苦しんだものじゃ。
何か一寸した事にぶっつかって、右か左かの決心をつけるまでに、三日も四日もかかったことさえある。
電光石火という工合にはなかなか行かなかったものじゃ。
それに、一度決心をつけて、その方にふみ出してからも、一寸うしろをふり返って見たくなったりして、考えると可笑しいほど未練がましかったものじゃ。
それもやはり、学問が実践によって練れていなかったからであった。
しかし、四十をこすと、どうなりそんな迷いもなくなって、何事をなすにも立ちどころに心が決まるようになったのじゃ。」
「先生が周都洛陽にお出になったのは、お幾つ位の時だったでしょう。」
「三十五歳の時であったと覚えている。
あの時が、わしの一生のうちで最も感銘の深かった時とも云えるのじゃ。
明堂で、堯舜や桀紂の像を見た時には、何かこう、ふるい立つような気持を胸の奥に感じたものじゃ。」
「老子にお会いになったのも、その時でしたね。」
「そうじゃ、幾たびもいうようじゃが、老子には捉えがたい竜のような神秘があった。
あの人の実人生に対する態度には、どうしても同意出来ないところがあったが、天地と共に生きる心境の自然さと、その深さとには、深く心を打たれるものがあった。
わしに対して、良賈は深く蔵して空しきが如く、君子は盛徳があって、容貌愚なるが如しと誡め、また、驕気と、多欲と、態色と、淫志を去れと教えてくれたが、まだ若かったわしにとっては、たしかに適切な言葉であったと、今でも感謝している。
わしが、わしの学問を頭から心に、心から行いに引き直して、そこに自然の境地を開拓しようと、真剣に努力し始めたのも、一つには老子の教えがあったからじゃ。」
門人たちは、これまで学問の敵だとばかり考えていた老子を、孔子自身がしきりに讃めるので、いくらか呆気にとられた形であった。
「しかし――」
と、孔子は急に悲しそうな顔をしていった。
「あの頃はいまわしい事も随分多かった。
魯の国がひどく乱脈になり、昭公が季氏に逐われて斉に遁げ出されたのもあの頃であった。
わしも難をさけて斉に行ったが、途中、ある山の麓の墓場で、一人の婦人がさめざめと泣いているのに出遭ったのじゃ。
わけをたずねると、舅と所夫を虎に啖い殺された上、今度はまた子供まで啖い殺されたのだという。
わしは、その婦人に、ではなぜこんな恐ろしい山の中に住んでいるのかと訊ねて見た。
すると、その婦人の答えが実に恐ろしい。
「ここには苛酷な政治がございませんから。」というではないか。
苛政は実に虎よりも恐ろしいのじゃ。
わしはその時、ある大きな使命を天から下されたような気がしてならなかった。
政治は書斎のものであってはならない。
老子に驕気と笑われ、多欲と罵られようと、古聖の道を地に布くためには、どうしても政治の実権を握らなければならない。
わしにはそう思われたのじゃ。
しかし、そう思っても、前にいった通り、自分自身をすら十分に治めることの出来ない有様では、どうにもなるものではない。
で、四十歳になるまでのわしは、迷わざる自己を建設することに全力をつくして来たのじゃ。」
「斉にお出になっても、直接政治にはご関係にならなかったのですか。」
「権臣の中に邪魔するものがあって、何一つ出来なかった。
何分、斉の景公が気魄のない、意志の弱い人物で、どうにもならなかったのじゃ。」
「景公に対して、先生は何かお説きになりましたでしょうか。」
「政治の事をたずねられたので、わしは、君臣父子各各その道を守るのが第一であるとお答えしたのじゃ。
何分、宮廷権臣の間に、そうした根本の道が紊れていて、政策はどうのこうのという段取までは、行っていなかったのでな。」
「景公は、先生のお言葉に対して何とかいわれましたか。」
「君臣父子がそれぞれの道を履み行うことが出来なければ、財政がどんなに豊かでも、自分は安んじて食うことが出来ない、とまでいって居られた。」しかし、大夫(たいふ)や気に入りの側室に気をつかって、次の王様である太子(たいし)を決めることさえできなかったのですから、どうしようもなかったのじゃ。」
「先生がご自分で政治をなさったのは、すると、やはり魯(ろ)の国が初めてでございましたね。」
「そうじゃ、魯が初めてでもあり、また終わりでもあった。
コメント