初級翻訳・透明人間 第2話

海野 十三

「きょうじゅうには、むりでございますよ」
「あすになるか? なんとか早く、とどけさせる方法はないものかな? 馬車ならいってこられそうなものだが……」
 がっかりしたようすで、なおもつづけた。
おかみさんは、この雪ではとてもだめだろうと、客のようすを探るようにながめながら、説明した。
「それがむりなんですよ。
このうら山には、とてもけわしい場所がありますんでね、馬車なんか通れやしませんよ。
去年でしたか、馬車がひっくりかえりましてね、お客さんと馬車屋が死にました。
とんだ災難で、まあ、こんな日には、おやめになったほうがようござんすね」
「なるほど、災難って、そういったもんかね」
 男はそれいじょう、たってたのもうとは言わなかった。
「マッチをとってくれんか」
 パイプをマフラーのあいだから口にさしこんで、おかみさんからマッチをうけ取った。
そしておかみさんに背をむけると、窓ぎわにいって、カーテンのすきまから中庭の雪をながめたまま、ひとことも口をきこうとはしない。
おかみさんは、はっとして、へやをでていった。
ふしぎな男は、夕がたまで、へやにとじこもっていた。
怪物の顔

 ふるびた時計が四時をうった。
あたりはいつのまにか、うす暗くなっていた。
宿のおかみさんは、さっきから、もうなん度も時計をながめてはためらっていた。
(四時だわ、どうしてもあのお客さまのところにいって、お茶のご用をきいてこなくては………だけど、どうしたのかしら、わたしはどうもあのお客さまの前にゆくのが、気がすすまないんだけど……)
 おかみさんは、また一、二分考えていたが、きゅうに勇気をふるい起こして、さっと立ちあがった。
そのとき、いきおいよく戸をあけて、
「おお! おかみさん、えらく降りだしたじゃねえか。
いやになるねえ、いつまでも寒くて、この大雪じゃ、わしのぼろ靴で歩くのはこたえまさあね」
と、大声でいいながら、戸口でぶるぶるっと雪をはらって、時計屋のテッディ・ヘンフリイが寒そうにはいってきた。
外では、まだ雪がやすみなく降りつづいている。
「ああ、テッディさん! まったく、こう寒くてはやりきれないわね」
 おかみさんは、こう言いながら、時計屋が片手にぶらぶらとぶらさげている修理道具のはいったふくろを見た、とたん、いいことを思いついた。
それは、
(テッディといっしょにあの客のところへゆく)
ということだった。そこで、
「テッディさん、いいところへきてくださったわ。ちょうど、お客部屋の時計を見てもらいたいと思っていたのよ。
あのへやの時計ときたら、動くのは、ちゃんとまちがいなく動くし、時間だって、元気よく打つんだけど、針だけがいつも六時を指したきりなのよ。
どうしたのかしら?」
「へんだねえ、ちょっくら、見てみましょう」
 テッディは首をかしげながら言った。
おかみさんは、かれをつれて、れいのふしぎな客の部屋のドアをかるくたたいた。
へんじはなかった。
が、おかみさんはさっさとドアをひらいて、部屋へはいりこんだ。
「眠っておいでらしいわ」
 おかみさんは、ひとり言のようにひくくつぶやいた。
男は、暖炉の前のひじかけいすに、ふかぶかと体をうずめて、ほうたいだらけの頭をかしげ、うとうとと、いねむりをしているらしかった。
灯のついていない部屋は暗かった。
ただ赤々とさかんに燃えている暖炉の火が、あたりをぼんやりと照らしだしていた。
男は、うつぶせになったまま、身動きもしない。
「まあ、なんて暗いんだろう。
灯をつけないから、なんにも見えやしない」
 いままで、明るい台所にいたおかみさんには、なにもかもが、ぼんやりと見えた。
「もし、だんなさま」
 声をかけて、ひと足、男のほうに近づいた。
と、つぎの瞬間、
「あっ!」
 おかみさんは、ぶっ倒れるかと思うほどおどろいてしまった。
ひょいと見た男の顔が、なんと怪物そのままの不気味な顔をしているではないか!
 暖炉の火をうつして、赤く光る色眼鏡、顔いちめんにぐるぐるまきにしたほうたい、そしてなによりおそろしく思えたのは、ぽっかりと深いあなのように開いている大きな口だった。
まるで顔の下半分が、すっかり口にかわったのではないかと思うほどだった。
「う、うーん」
 おかみさんのびっくりした声に目をさましたのか、男は、ゆらりと体を動かし、眠そうにいすから立ちあがった。
「あっ」
 男は、目の前にたまげた顔で立ちすくんでいるおかみさんを見ると、あわてて、襟巻のはしで口のあたりをかくそうとあせった。
その間に、おかみさんは、やっとの思いで、気をとりなおし、
「だんなさま、時計屋が時計をなおしにまいりましたので、ちょっと……」
「時計をなおすのかい? いいだろう――」
 男は、とりつくろったようすで、重々しくこたえた。
「では、テッディさん、ちょっと、待っててください。
すぐランプをとってきますからね」
 おかみさんは、逃げるようにへやからでてきた。
時計屋も、怪しげな客の姿を見て、どぎもをぬかれ、部屋にはいらずに、おかみさんが引っかえしてくるのをじっと待っていた。
「お待ちどおさま!」
と言って、おかみさんは、ランプを片手にもち、時計屋をうながすような目をして、もういちど部屋にはいっていった。
時計屋があとにつづいた。
男は、部屋のまん中につっ立っていた。
時計屋は、おずおずと、
「おじゃまではございませんか? お客さま」
と言うと、男はちらりと色眼鏡をきらめかして、
「いや、かまわんとも」
と、ごうまんな態度でこたえた。
時計屋は、なにやら、ぞっと背すじが冷たくなるような、いやな感じをうけた。
できることなら、時計の修理などはほうりだして、この部屋からでていきたくなった。
と、男は、こんどはおかみさんにむかい、
「おかみさん! ぼくのほかにはだれも、この部屋にはいらせない約束だったね」
と、つめたい声で不満そうに言った。
おかみさんは、たじたじと後ろにさがり、
「ですけど、時計だけは――」
 なおしておかなくては、あなたがおこまりになるでしょうと、言うつもりだったが、おそろしさのために、そのあとの声がつづかなかった。
「むろん、時計は正確でなくてはいけないよ。
だが、ぼくは、この部屋にいつでもひとりで静かにいたいのだ。
だれもはいってこないように気をつけてもらいたいね」
 ぶきみな男にどなりつけられると、時計屋は逃げだしたくなった。
もじもじ、手足を動かした。
それをみると、男は、すぐに、
「だけど、時計をなおしてくれるのに文句をいうつもりはないよ。
けっこうだよ。
なおしてもらおう。
きみ、さっそく、やってくれたまえ」
 時計屋のヘンフリイは、すくわれたように大いそぎで時計にとびつき、修理にかかった。
男は暖炉をうしろにして、両手を背中でくみあわせ、また、おかみさんにむかって、
「おかみさん、時計がなおってからでいいから、お茶をいれてくれたまえ」
 おかみさんは、
「ただいま、すぐ持ってまいりますわ」
と、いうより早く、出ていこうとした。

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