初級翻訳・透明人間 第4話

海野 十三

なんだって、あんな男をとめる気になったんだろう? おれが宿屋のあるじなら、相手の顔をよくよくながめ、名まえをたしかめてから、泊めるか、泊めないか決めるね。
女ってものは、よそものっていうと、とかく信用しがちなものさね。
まして科学者なんていうと、なおさら信用するがね。
部屋をかりて、名まえを言わねえような男は、ろくな人間じゃねえやね」
 人がいいばかりで、頭の働きのにぶいホールは、ぼんやりと、
「そう言うもんかね」
「あたりまえだよ。
しかし、おかみさんは、一週間のけい約をむすんでしまったんだ。
いまさら、あいつがどんな悪者だったとしても、一週間のあいだは追いだすことはできないんだ。
あすになると、あいつのいう実験道具とやらが、どっさりはこびこまれるらしいぜ。
なんの実験をするつもりだかわからないがね」
「ふうん」
 ホールは、心配そうに考えこんでしまった。
ヘンフリイは、なおもくどくどと、
「用心したほうがいいぜ。
おれのおばさんもね、ヘイスティングズでやはり宿屋をやっているがね。
見なれぬ客がえらく大きなりっぱなかばんをさげてきたのをみて、すっかり信用してしまったのさ。
ところがそのかばんは中がからっぼで、それに気づいたときは、たくさんの宿料をふみたおされて、逃げられたあとだったんだ。
おめえたちも、怪しい客には、よくよく気をつけたほうがいいぜ」
「ありがとう、ヘンフリイ。
こいつはどうも、うちのやつにちょっくら、言ってきかせなくてはならない。
これから大いそぎで帰ろう」
 すっかり不安になった黒馬旅館の主人ホールは、馬にひとむちあてると、いちもくさんに家へむかって走った。
いきおいこんだホールが家にとびこむと、
「おまえさん! いつまで外をうろうろしてたんだい? また油を売ってたね。
そうでなくて、こんなにながく時間がかかるはずがないじゃないの!」
 ホール夫人のがみがみとどなりつける声がとんできた。
「なに……それが、あの……その」
と、いままでの元気はどこへやら、ホールは叱られた猫のようにいくじなくちぢまって、しばらくたってから、やっとこさで、
「おまえ、新しいお客があったってね。
いったいどんな方だい?」
と、おずおずしながら聞いた。
「だれに聞いたの? ヘンフリイがおしゃべりしたのね。
どんな方って……りっぱな方よ。
あなたになんか、あの方のことを話したってわかりゃしないわ」科学者なんですって」
 それからあとは、いくらホールが聞いても、気のないへんじをしてごまかしてしまった。
(ちえっ、あいつ、おれにかくしだてをする気だな。
いいよ。
おれはじぶんの目で、そのへんな客ってやつを見てやるから――)
 ホールは、おかみさんにいくら聞いても、それいじょうは話さないとわかると、だまって決心をした。
九時半になった。
怪しい客も眠りこんだらしく、黒馬旅館は物音ひとつしなくなった。
「やつも眠ったらしいね。
どれ、ひとつ、どんなやつだかしらべてこよう」
 ホールは立ちあがり、足音をしのばせると、むこう見ずにも、客間にそろそろとしのびこんでいった。
思ったとおり、客は、ふかぶかとベッドにもぐりこんで眠っていた。
ホールは、きょろきょろとあたりを見まわし、机のうえいっぱいに、むずかしそうなこまかい数字をかきこんだ紙が散らばっているのをみると、ばかにしたようすで、
「ふふうん!」
と、鼻のさきでせせら笑って、ひきあげた。
お人よしのホールは数字をかきこんだ紙を見ただけで、このへんな客が、おかみさんの言うとおり、学者なのだと思いこみ、すっかり安心してしまったのである。
一方、おかみさんは、主人にむかっては、きっぱりと強がりを言ったものの、内心はやはり、客のことが気になってしかたがなかった。
ベッドにはいってからも、夜っぴて大きなかぶらのようにまっ白な、ぶきみな顔に追いかけられる夢をみて、うなされつづけた。
ちょっとした事件

「おはようございます。
荷物を持ってあがりました」
 馬車屋のフィアレンサイドが、つぎの朝はやく元気のいい声をひびかせて、馬車をひき、黒馬旅館にやってきた。
寝ぶそくらしく、はれぼったい目をしたおかみさんが、主人のホールといっしょにでてきた。
「ごくろうさま」
「きょうは、きのうの雪のために、道がひどいぬかるみになっていて、えらい難儀でしたよ」
 フィアレンサイドが、二人の顔をみるなりこぼした。
が、二人は、かれの言葉などまるで耳にはいらぬようすで、馬車につまれている、ふうがわりな荷物に見とれていた。
ふつうの人間の持物らしいのは、トランクだけだった。
トランクは二個あった。
そのほかの荷物ときたら、何ともいえずふうがわりなのだ。
なにをつめてあるのか、中の物がこわれぬように麦わらをぎゅうぎゅう間につめこんだ籠が十二、三個。
それにぶあつな本をおしこんだ箱が数えきれないほど、そのほかにもえたいのしれぬ荷物が山とつまれている。
ホールは馬車に近より、籠の中に手をつっこみ、詰物の麦わらをかきわけてさぐった。
中は、ガラスびんらしい。
おかみさんは、客をよびにいった。
「荷物がきたんだって?」
 男はうれしそうに、声をあげてとんできた。
みるとおどろいたことに、男は、へや着のうえから、オーバーを着、帽子をかぶり、手ぶくろをはめ、ごていねいにえりまきまでしっかりと身につけていた。
フィアレンサイドもホールも、男の身じたくが、あんまりものものしいのに、あっけにとられて、ぼんやりとかれの顔を見ていた。
男は、せきこんで、
「ずいぶん待たされたよ。
さっそく運びこんでくれたまえ」
 言いながら、待ちきれないように、荷馬車のうしろにまわり、籠のひとつに手をかけようとした。
そのとき、フィアレンサイドがつれてきていた犬が、とつぜん、かれの姿をみて、毛をさかだて、ものすごいうなり声をあげた。
男は、気にもせず、
「いいかい、どれもだいじなものだから、気をつけて運んでくれたまえよ」
と、いいつけ、玄関の石段をあがりかけた。
とたんに、犬はひときわ高くうなり声をあげ、ぱっと男の手にかみついた。
「うわっ!」
 男は、大声をあげた。
びっくりしたホールとフィアレンサイドは、
「こらっ、こいつめ! なにをするのだっ」
と、あわててどなりつけ、フィアレンサイドは犬をぶちのめそうと、むちをふりまわした。
そのとき、男は、目にもとまらぬす早さで、ぱっと力まかせに犬をけとばした。
ふいをくらった犬は、よろよろとよろめいたが、こんどは、猛然とうなり声をあげ、もう一度男におそいかかったとみるや、その足に、がぶりっとかみついた。
びりびりと、ズボンがさける音がした。
「ひゃあっ!」
 とびあがったフィアレンサイドが、
「こんちくしょうめ、こんちくしょうめ」
と、さけびながら、こんどこそ、したたか犬をたたきのめした。
きゃんきゃんと犬は悲鳴をあげ、車の輪のあいだに逃げこみ、小さくなった。
すべてが、あっという間のできごとだった。
気まずい空気がみんなのあいだに流れた。

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