男は、かみさかれた手袋とズボンのすそを、しゃがみこんでしらべていたが、そのままくるりとむきをかえ、いちもくさんに旅館の中にかけこみ、足音もあらく、じぶんの部屋にはいってしまった。
フィアレンサイドは、やっと我にかえった顔つきで、
「でてこい! わるいやつだ。
とんだいたずらをしくさって。
お客さまのズボンをかみやぶったではねえか……」
そして車の輪のあいだにいびつに隠れながら、おく病そうにこちらをうかがっている犬に、むちをふりまわしてみせた。
ホールは、まだ、ぼんやりとつっ立っていた。
フィアレンサイドが浮かぬ顔で、
「ホール、あのお客さまにけがはなかっただろうかね?」
「ひどくかみつかれなさったようだったけど、おれ、ちょっと、部屋へいって、ようすをうかがってこよう」
ホールは、あたふたとかけだした。
廊下までくると、これも浮かない顔で歩いてくるおかみさんにばったりとあった。
「フィアレンサイドの犬が、お客さまの手と足にかみついたんだ」
ホールはせきこんで、眉をしかめながら言った。
が、おかみさんは、ちょっと、うなずいたきり、足もとめないですれちがってしまった。
客の部屋のドアは、ひらいたままだった。
「お客さま、おけがはありませんでしたか?」
ホールは、声をかけ、なにげなく部屋にはいろうとした。
窓のカーテンはすっかりおろされ、部屋の中はうす暗かった。
その中に手首からさきのない腕が、にゅっとかれのほうにつきだされ、のっぺらぼうのまっ白な大きな顔が、うす青い三つの深い穴をあけて、空中に浮いていた。
あっと思うひまもなく、ホールは、なにものともしれぬ強い力に、どんと胸をつかれ、ひとおしに廊下につきだされてしまった。
「うわあっ!」
よろめきながら、ホールがさけぶと、その目のまえに、ドアがばたんと音をたててしまった。
ホールは、しばらく、ドアを見つめて、ぼんやり考えこんでいた。
「これは、いったい、どうしたってことなんだ。
どこのどいつがおれの胸をついて、廊下にほうりだしや가ったというのだ……」
さっぱりわけがわからない。
いっぽう、宿屋のまえは、ものめずらしげにあつまってきた村の人びとで、黒山の人だかりになっている。
フィアレンサイドは、その人たちを相手に、さっきのできごとを、くりかえしくりかえし話していた。
「おれがとめるひまもないほどのすばやさで、こいつは、がぶりとお客さまの足にかみついたんだ。
へいぜいおとなしいやつだのに、どうしてあんならんぼうなことをやったのか、さっぱりわからねえ」
フィアレンサイドは頭をふりふり、いく度も言った。
「だけどさ、ふしぎじゃないかねえ。
ただ立っているだけの人に、なんだってかみついたのかしら?」
話をきいていたおかみさんのひとりが、口をはさんだ。
雑貨屋のハクスターがもっともらしいようすで、
「そうだよ、われわれがここに立っていても、こいつはかみつかないのにさ」
「だけど、もとはって言えば、フィアレンサイドがこんなろくでなしの犬をかっているのが、大さわぎをおこすもとなんだよ」
また、ほかのひとりがいった。
ひとりがだまれば、ひとりがしゃべり、旅館のまえはたいへんなさわぎだった。
このさわぎの中に、ホールは魂をなくした人間のように、ぼうっとしていた。
目ざとく見つけたおかみさんは、
「おまえさん、どうしたの? なにかあったのかい?」
「いいや、なんでもねえ」
ホールはうつろな目で、集まってきた人たちを見ていた。
その荷物は?
おしゃべりに夢中になっていた村人たちは、その男がいつのまにか、その部屋から玄関にでてきていたのに、いっこうに気づかなかった。
「う、うう、わんわん!」
車のかげに小さくなっていたフィアレンサイドの犬が、きゅうにはげしくほえたてた。
「あっ!」
思わずふりかえった人びりは、玄関に不気味な人かげをみて、ぎょっと顔色をかえた。
そのとたん、
「馬車屋、なにをぐずぐずしているんだ! はやく荷物をはこべ!」
すご味のあるどなり声が、あたりをふるわせてひびいた。
フィアレンサイドが、びくっと飛びあがり、ホール夫人は棒立ちになった。
村人は、くものこをちらすように、後もみずにちっていった。
馬車屋は、しばらくためらっていたが、勇気をふるって男に近より、
「だんなさま。
あいすみませんことです……おけがはありませんですか? なんとも、はや、申しわけありません」
ぺこぺことわびた。
男は、じろりと馬車屋をにらみ、
「けがなんかせんよ。
かすり傷ひとつしてないんだ。
それより早く荷物をはこべ」
と、おうへいな態度で言った。
馬車屋とホールの手で、荷物は男の部屋にはこびこまれた。
男はすぐさま荷物をほどきにかかった。男はもどかしそうに、隙間に詰めてあった麦わらをほうりだし、中からガラスびんをひとつずつ、大事そうにとりだした。
どのびんにも、いろいろな液体や粉末がつまっている。
男はおびただしい数のガラスびんをとりだすと、こんどは試験管を並べた。
つぎははかり、そのつぎは、正体のわからない奇妙な機械だった。
「やれやれ、これでやっと全部とりだせたぞ。
無事に荷物がとどいてなによりだ。
のろなま馬車屋め、おれの大事な荷物を台なしにしないかと、はらはらしたよ」
男はほっとしたようにつぶやき、麦わらや空の籠、空箱で部屋中がすっかり汚れてしまっていることにも、全く気づいていない様子だった。
「さあ、さっそくとりかかろう」
男は息をつくひまもなく、窓の近くに機械を並べ、すぐに実験にとりかかった。
いつのまにか暖炉の火は消え、芯から凍えるような寒さがしんしんと迫っていた。
しかし、男は暖炉の火が消えたことなど、これっぽっちも気にしていなかった。
試験管を並べ、毒薬と書かれた茶色のびんを手に取ると、試験管の中にたらたらと三、四滴の液体をたらしこんだ。
こんどはそれを火にかけ、さらに別の薬品のふたをあけた。
男は長い間こうして何もかも忘れ、ただただ実験に夢中になっていた。
時はすぎ、いつのまにか昼がきていた。
ドアをたたく軽い音が響いた。
しかし男は少しも気づかない。
おかみさんが、お昼の食事をはこんできたのだった。
ドアをたたく音はしばらくつづいた。
だが男は夢中で試験管を振っていた。
しびれを切らしたおかみさんは、とうとう、黙って部屋にはいってきた。
「まあ! これはいったい……」
ひと足ふみこんだおかみさんは、たちまち顔をしかめ、不機嫌な声をはりあげた。
部屋がめちゃくちゃに荒らされている。
わらくずがちらかち、古いトランクが投げ出され、空の籠が放り出されている。
おかみさんはいきなり、怒りにまかせてテーブルの上の麦わらを手荒く放りだした。
そして、ガシャンと大きな音をたてて、食事の皿をその上に投げだした。
男ははじめて、「おやっ?」というふうに顔をあげた。
「お食事をもってまいりましたよ」
おかみさんは男をにらみつけ、つっけんどんに言った。
男は返事もせず、うつむいたまま、テーブルの上においてあった眼鏡を大急ぎで手に取ってかけると、やっとゆっくりとおおかみさんのほうに向きなおった。
男の動きは素早かった。
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