初級翻訳・透明人間 第18話

海野 十三

信じてくれたまえ、ケンプ!」
「では、話してみたまえ」
「話そう、が、そのまえにすまないがウィスキーと食事と着る物がほしいんだよ。
じつはけがをしているので、傷はいたむし疲れきっているんだよ」
「食べ物に着物だって……すこし待ちたまえ、なにかあるだろう。
が、家のものをさわがしたくないから、まにあわせだよ」
 博士は、落ちつきをとりもどしていた。
科学者らしく、ちみつに頭を働かし、このふしぎな透明人間の秘密をできるかぎり探りだしてやろうと考えていた。
「なんでもけっこうだよ。
死ぬほどつかれているんだ。
なにか食べてゆっくりと眠りたいだけなんだ」
 博士は衣裳戸棚から、古くなったガウンをとりだして、
「これでまにあうかね?」
「けっこうだよ。
それにズボン下とくつした、そしてスリッパがあれば申し分ないが……」
 空中の声がへんじをするといっしょに、博士の手からガウンがとりあげられ、空中でばたばたといゆれていたが、そのうち、透明人間が着こんだらしく、しゃんと立ってボタンがひとつずつかけられていった。
「やれやれ、これで身じたくがととのったよ。
あとはウィスキーに食べ物があればいいんだ。
裸で腹をすかせているのは、まったくつらいよ。
まだ夜になると裸ではこおりつきそうに寒いし、腹がすいてたおれそうになるし、まったくつらかったよ」
 透明人間は、服をきてしまうと、ゆっくりといすに腰をおろした。
「ねえ、ケンプ。
早くウィスキーを飲ませてくれないか」
 透明人間は、せかせかとさいそくした。
「いま持ってくるよ。
だが、こんなきちがいじみたことにであうのは、生まれてはじめてだよ。
ぼくは催眠術にかかっているのかな?」
「ばかなことを言いたまえ、ぼくは催眠術なんぞやらないよ」
 博士は、足音をしのばせて台所におりてゆくと、冷えたカツレツとパンを手にしてもどってきた。
「ウィスキーはここにある。
さあ食べたまえ」
 博士はサイドテーブルにそれらをならべると、ほうたいとナイト・ガウンの化けものに声をかけた。
ウィスキーをグラスについでやると、ナイト・ガウンの袖が動いて、すっとグラスを持ちあげた。
グラスを持ちあげたというより、グラスがひとりで空中に浮かびあがっていったような感じだった。
口のあたりと思われるところでグラスがかたむくと、みるまにウィスキーは飲みほされた。
「ああ、うまい」
 つぎに、カツレツが空中に舞いあがった。
つづいてパンも……。
「なるほど、見えないよ。
で、傷をしているといったが、どこを傷つけられたんだね」
「傷はたいしたことはないんだ」
 透明人間はがつがつと口いっぱいにほおばって、むさぼるように食べながら言った。
見るまにウィスキーも食べものも、へっていった。
「ああ、うまい、それにしてもぼくがほうたいをさがしてまよいこんだのが、きみの家だったとはふしぎだな。
ぼくは運がよかったよ。
こん夜は泊めてもらいたいね。
ひさしぶりにゆっくり眠りたいんだ。
ベッドを血でよごしてすまなかったね。
体は透明になっていても、血だけはかたまると見えてくるんだよ……。
そのためにさっきも、あやうくつかまるところを、きみの所ににげこんでたすかったんだ」
「また、どうしてピストルでうちあいなんかやったんだね」
「ばかなやつが、ぼくの金を盗もうとしたんだ。
そいつはぼくがなかまにしようと思ってた男だのに……」
「そいつも透明なのかい?」
「いいや、かれはふつうの人間だよ。
あいつはぼくを恐れてびくびくしていたくせに、ぼくをうらぎろうとしたんだ。
あいつめ、こんど会ったらぶち殺してやる。
ちくしょうめ!」
 透明人間は、はげしく体をふるわして怒りだした。
ナイト・ガウンがそれにつれてぶるぶるとふるえた。
博士は、グリッフィンが大学生のころから、ひどくおこりっぽい感情のはげしい男だったのを思いだして、一生けんめいになだめた。
透明人間は、ようやく怒りをしずめ、
「ぼくは武器をつかったりなんかしなかったんだ。
それだのに、やつらはおれにむかって、つづけざまにピストルをうつんだ。たいていのやつらはぼくをこわがって、ぼくを追っぱらおうとして乱暴するんだよ」
「なるほど、だが、きみがそんな体になったいきさつを、話してきかせてほしいな」
「それはゆっくり話すよ。そのまえに、たばこがほしいんだが」
 博士はいわれるままに、たばこを透明人間にあたえた。
ところが、見るからに奇怪なことが起こった。
それは透明人間が、うまそうにたばこを吸いはじめると、たばこの煙が流れるにしたがって、口からのど、そして鼻と、そのかたちがぼんやりとうきあがってきたのだ。
「ありがたい。きみのおかげで、寒さからも空腹からものがれることができたよ。そのうえ、おちついてたばこをすうことまでできたんだ。まったく感謝するよ。しかし、ケンプ、きみは学生時代と、ちっとも変わっていないな。きみのようにどんなときでも落ちつきはらって、てきぱきと物ごとをかたづけてゆける人間こそたよりになるんだ。これからどうか、ぼくをたすけてくれたまえ」
 透明人間が言った。
博士は、じぶんもちびちびとウィスキーをのみながら、
「いったいきみはぼくに、なにをやれというのだね。ぼくは人をたすけるどころか、ぼく自身どうしたらいいかと思いまよっているんだよ」
と、博士はくらっぽい表情でこたえた。
そのうち透明人間は、にわかにうめき声をあげ、体をえびのようにまげ、頭をかかえこんだ。
熱がでてきて、傷がいたみはじめたのだ。
「きみ、この部屋で朝までゆっくり眠りたまえ。そうすればきっと、あすの朝は気分もさわやかになるだろうから……」
 博士は親切にすすめた。
ところが透明人間は、苦しそうにうなり声をたてながら、どうしても眠ろうとしなかった。
「きみ、えんりょしないで眠りたまえ。そうすれば気分もよくなるし……」
 透明人間は、なにを思ったのか、しばらくだまって博士をじっと見つめていたが、
「ぼくは、心をゆるした人間につかまるのはいやだね」
と言った。
博士はぎくりとした。
なにもかも見すかしたような透明人間のことばは、博士の心をぐさりと突きさした。
友をどうしよう——

「ぼくがきみを警官の手にわたすなんて、そんなばかなことがあるものか……ぼくを信じてゆっくりとやすみたまえ」
 しかし、透明人間はどこまでも用心ぶかかった。
部屋のなかをねんいりに見わたしてから、ふたつの窓をしらべ、そしてドアの鍵をあらため、警官がまんいちかれをおそうことがあっても、逃げだす道があることをたしかめてから、やっと、よこになった。
「おやすみ」
 博士が透明人間に言って、ドアをしめようとすると、急にナイト・ガウンがすーっと近づいてきて、
「だいじょうぶだろうね、ケンプ。ぼくをゆっくりねむらしてくれるね。警官にわたしはしないだろうね」
 博士は顔いろをかえ、
「わすれたのかい。たったいま、やくそくしたじゃないか。よけいな心配をしないで、ぐっすりやすみたまえ」
 ドアをしめると、すぐに中から鍵をかける音がした。
博士は、
「やれやれ、とうとうじぶんの寝室から追いだされてしまった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました