おおかた、子どものいたずらでございましょう」
「子どものいたずらか」
お手伝いがひきとっていくと、博士はスタンドを手もとにひきよせ、一生けんめいに書き物をはじめた。
部屋の中はしずかで、時をきざむ時計の音だけがきこえている。
夜の二時になった。
博士は書きかけの書類から頭をあげると、
「もう二時か、そろそろ眠くなってきたな、疲れもしたし、こん夜はこれでおしまいにしよう」
大きくのびをして、灯をけすと、階下の寝室へおりていった。
博士はひどく疲れていた。
頭がおもい。
こんな時、博士はいつも愛用のウィスキーを少し飲んで、ぐっすり眠ることにしていた。
「こん夜もすこし飲んで眠ろう」
博士はひとり言をいって、上着とチョッキをぬいだままの姿で台所におりていった。
ウィスキーのびんをさげて、ひっかえしてきたとき、階段の下にしかれているマットに、ひと所、黒いしみができているのが目についた。
「だれだろう? こんなところにしみをつけて……」
博士はぶつぶつ言いながら、ひょいと身をかがめて、そのしみをながめた。
しみは、ちょうどかわきかけた血のように見えた。
「おかしいな、血かな?」
博士は指さきで、そっとさわった。
思ったとおりだった。
「だれがこんなところに血をおとしたのかな?」
にわかに胸さわぎがして、暗い予感がしてきた。
博士は、考えながら寝室にやってきた。
と、そこでもまたかれは、おそろしいことに出会ってしまった。
なにげなく手をかけようとしたドアのハンドルが、血でまっかにそまっているのだ。
これはただごとではない。
博士の全身の血が、さっとひいていくようだった。
かれの頭には、その時、夕方書斎できいたピストルの音が、ありありと浮かんでいた。おそろしいことが起こりつつあるのではなかろうか?
博士はきっとした表情になり、ゆだんなくあたりを見ながら、しずかに部屋にはいっていった。
しかし博士が考えたように、警官のピストルで傷ついたギャングはいなかった。
ギャングはもちろん、ねこの子一ぴきすら部屋にはみえない。
ただ、ベッドの上のふとんが乱暴にめくられ、血でよごされ、そのうえ、シーツがびりびりにひきさかれていた。
ギャングは、警官に追われて、この家に逃げこみ、ついさっきまでこの寝室にしのびこんでいたにちがいない。
「そうだ。
きっとそうにちがいない。
なによりの証拠に、ベッドにいままで人が腰かけていたらしいくぼみができているじゃないか」
博士は血ですっかりよごれたベッドのまわりを、念いりにしらべた。
「いつのまにしのびこんだのかな?」
博士がふしぎそうにつぶやいた、そのとき、
「やあ、しばらくだったじゃないか、ケンプ!」
いかにもなつかしそうによびかける声が、耳のはたでひびいた。
「あっ!」
ふいをうたれてかれは、けげんそうに部屋じゅうをぐるぐる見まわした。
どこにも声の主の姿はない。
「だれだね?」
博士の声はうわずっていた。
しかし、こんどは返事がなかった。
ただ部屋をよこぎって歩く足音がして、洗面所のカーテンが、生き物のように動き、するするとひらいたと思うと、すぐにもとのようにしまった。
博士は声をのみ、ぶきみに動くカーテンをみつめて棒立ちになっていた。
傷ついた透明人間
それから五分もたったであろうか……。
博士には、ながい時間がたったようにも思われた。
もう一度カーテンがゆれ動き、なかから、ぼんやりと、血のにじんだほうたいでぐるぐる巻きにした頭があらわれてきた。
頭だけだ。
空中にぼんやり浮かびあがったほうたいまきの頭は、目もなければ鼻もない。
いや頭ぜんたいがないのだ。
ほうたいだけが、しっかりとまきつけられている。
もちろん手も足もありはしない。
たいていの者なら、ひと目みただけで気絶してしまうところだ。
が、気丈な博士はまっさおになりながら、じっとそのふしぎなものを見つめていた。
「ケンプ!」
ふしぎなものは博士をよんだ。
「え?」
「おどろいてるな。
ぼくはグリッフィンなんだよ。
ほら大学で同級だったグリッフィンだよ。
おぼえてるだろう」
「グリッフィンだって……なにをばかなことを……この化けものめ!」
博士はいきなり、ほうたいのほうへ手をのばした。
と、どうだろう……。
人の体にふれたではないか!
ぎょっとして手をひっこめ、まじまじと空中にうかぶおかしなものをみた。
「おちついてくれよ、ケンプ。
おれはまちがいなくグリッフィンなんだ。
ただおれはふとしたことで体がすきとおってしまい、人の目に見えなくなってしまったんだ。
世間のやつらが透明人間だとさわいでいるだろう」
透明人間は目に見えぬ手で、しっかりと博士の手をにぎりしめて、いっしんに話した。
しかし、博士は、その手をふりほどき、めちゃめちゃに手をふりまわして、透明人間にぶつかってきた。
「しずかにしろ! ケンプ、話せばわかることなんだ、話をきいてくれ」
「なにを、このやろう、このばけものめ。
話もなにもあるものか、ふんづかまえてやるぞ」
「だまれ、おれがおまえなんかにつかまるものか……」
透明人間は、むかっ腹をたてたらしく、とうとう、博士の足をえいっとすくい、ベッドの上にほうりだし、大声をあげて助けをよびそうにしている口の中へ、シーツのはしをぐっとねじこんだ。
博士は、こうなっては手足をばたばたさせて、もがくばかりだった。
「しずかにしてくれたまえよ、ケンプ。
きみをおどしたり、きみに害をくわえるつもりできたんではないんだ。
ぼくはいまこまっているんだ。
きみの助けがほしくてやってきたんだよ」
博士は、このうえ手むかってもむだだと考えたのか、おとなしくなった。
透明人間は、口におしこんだシーツをとりのぞき、
「ねえ、きみ、どうかぼくの言うことを信じてくれたまえ。
ぼくは大学にいたときと同じグリッフィンなんだ。
ただ、あることで姿が見えなくなったが、人さまの目に見えないだけで、ぼく自身は、なんにも変わったことはないんだ。
心も体も昔のままのグリッフィンなんだよ」
博士は物わかりのいい人だったし、頭の慟きのするどい人だったので、姿の見えないほうたいの化ものの言葉に真実のあることを見ぬき、
「ずいぶんきばつな話だが、話をきけばあるいはわかるかもしれん。
話してみたまえ。
それにきみの言うように、わしの目には、きみの姿は見えないが、たしかに体はあるらしいな。
わしの手がたしかにさわったし、きみの腕がわしをなげとばしたからな」
「そうなんだ、そうなんだ。」たしかにぼくは頭もある手足もあるんだ……。
おそろしい化けものなんぞじゃないんだ。
ただ研究の結果でこんなことになってしまったんだ」
「研究の結果だって? 研究の結果できみが透明人間になったというのかい?」
「そうだよ」
「信じられないね。
だいいち、透明人間がグリッフィンだと言ったところで、たしかにかれだという証拠はないわけだ。
顔をみることもできんし……もっとも声はグリッフィンらしいが」
「きみ、まだそんなことを言うのかい……ぼくはまちがいなくグリッフィンだよ。
ゆっくり話せば疑いははれるよ。
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