初級翻訳・透明人間 第16話

海野 十三

三人が息をころしてドアを見つめていると、奥の部屋から、ひょいとトーマスが顔を出して、
「家じゅうのドアは、みんなしめてありますかい? 透明人間のやつは、きっとぐるっとまわり道をして、あいているドアをさがすはずですぜ。
悪魔のように、ぬけめのないやつですからね」
「そいつはたいへんだ。
うら口のドアはあけたまんまだった。
ちょっとわたしがしめてくる。
店番はこちらのおまえさんたちにたのむぜ!」
 ふとったおやじは、ころがるようにかけだした。
トーマスは顔をひっこめ、ばたんとドアをしめ、鍵をしっかりとかけた。
やがて、かけもどってきたおやじは、手に大きな肉切包丁をぶらさげ、心配そうに言った。
「庭の木戸も通用口のドアも、みんなしめるのをわすれていたんだ。
そのうえ、庭の木戸はあけっぱなしになっていたんだが……」
「透明人間が、そこからめがけてはいりこんだんじゃないのか?」
 気の早い馬車屋が、おやじが話しおわらないうちに、おそそろしくなってさけんだ。
「調理場にお手伝いが二人いたが、だれも外からはいってきたけはいはなかったそうだ」
「しかし、ゆだんしてはならないぞ!」
 警官はあたりをぐるぐると見まわしながら言った。
黒ひげの男は、ぐっとピストルをにぎりなおして、調理場のほうをにらみつけた。
そのとき、ぎ、ぎぎいっーと、おくの部屋のドアが、はげしくきしむ音がしたと思うと、あっと思うまもなく、ぱっと大きくあけはなされた。
酒場の事件

 トーマスのかなきり声がひびきわたった。
それはちょうど、蛇ににらまれた小鳥の、かなしい悲鳴にそっくりだった。
「それっ!」
 三人はカウンターをとびこえて、まっしぐらにかけつけた。
黒ひげの男のピストルが火をふいた。
と、同時に、おくの部屋の鏡が大きな音をたててこなごなにくだけ散った。
「助けてくれ! だれかきてくれ!」
 トーマスは、目に見えぬ何者かにひきずられながら、じたばたともがいている。
三人は顔を見あわせてためらった。
敵の姿は、どこにもまったく見えないのだ。
どうやってトーマスをかれの手からうばい返して助けてやればいいのか、さっぱりわからなかった。
そのすきにトーマスは、ずるずるとひきずられて、おくの部屋から調理場の中へとひきずりこまれていった。
棚からフライパンや鍋が、けたたましい音をたててころがり落ちた。
「どけろ! どけろ!」
 警官はおやじをおしのけ、トーマスの首すじをおさえている手があると思われるあたりに、ぎゅっとしがみついた。
「ええい! じゃまするな!」
 怒りにいろどられた声がして、警官はものの見事に、その場になぐりたおされた。
トーマスは必死になって、ドアのとっ手にしがみついたが、なんのかいもなく、みるまにひきずられていった。
後からとびこんできた馬車屋とおやじは、めちゃくちゃに手足をふりまわしているうちに、とうとう、透明人間の体のどこかをつかまえた。
「つかまえたぞ! みんなこい! ここにやつがいるぞ!」
「いたぞ! 透明人間がいたぞ!」
 二人は、いちどつかまえたが最後、どんなことがあっても絶対に離すものかと、むしゃぶりついてあばれまわった。
さすがの透明人間も、トーマスをつかまえたうえに、この二人を相手にしては、うまく戦えるわけがない。
「ちくしょうめ!」
 いまいましげに舌うちして、やつはトーマスをぱっと放した。
二人がむやみやたらにあばれて、げんこつをぶんぶんふりまわすので、透明人間もいささかもてあましはじめたらしい。
「おい、なんだって、お前らはじゃまをしやがるんだ。
おまえらの知ったことじゃないはずだぞ!」
 透明人間と二人は、はげしく取っ組みあって大あばれした。
そのうち、やっと起きあがった警官も加勢にかけつけ、両うでを水車のように力いっぱいふりまわしながら、目に見えぬ敵におどりかかっていった。
トーマスは、あばれまわっている人たちの足もとを這いまわりながら、命がけで逃げだす道をさがしている。
調理場での大乱闘が二十分もつづいたころ、
「おや、おかしいぞ。
やつはどこへいっちまったんだ。
外へ逃げたのか?」
 黒ひげの男が、ふいに、きょろきょろとあたりを見まわして大声でさけんだ。
「中庭へ逃げたんだ!」敵は中庭だ」
 警官がまっさきにたって、中庭にとびだそうとした一瞬……。
ぴゅうっ――と風をきって屋根がわらが、かれの頭をかすめて飛んできた。
調理台の皿小鉢が音をたてて、みじんにくだけ散る。
「ようし、おれがひきうけた」
 黒ひげの男は、ひと声たかくさけんで、警官の肩ごしにピストルをつきだし、つづけざまに五発、透明人間のいるらしい方向にむけてぶっぱなした。
弾はうなりを生じて飛んでいった。
ピストルの音がしずまると、庭はしいんとしずまりかえった。
かわったことは、なにも起こらなかった。
「五発うったぞ。
こいつが一番ききめがあったろう。
もう、だいじょうぶだ。
透明人間の死がいを探そうじゃないか」

恐ルべき発見

ケンプ博士の来客

 その日の夕方、ケンプ博士は、こじんまりしたかれの書斎で、書きものをしていた。
博士の家は町をみおろす、丘のうえに建っている。
そこからは、丘のふもとの『銀ねこ』酒場や、バスの停留所が、ひと目でみることができた。
おだやかな静かな町で、これといって騒がしい事件がおこらない平和な町であった。
博士のへやの書だなには、ぎっしりと本がつまっている。
自然科学、薬理学の本がおもで、窓ぎわの机には、けんび鏡、スライド、培養えき、くすりのびんなどが、いちめんにならべてあった。
とつぜん、ピストルの音がした。
ピストルの音は一発だけではなかった。
つづけざまに、五発の銃声が夕空にこだまして、街の静寂をつきやぶった。
博士は気がかりになってきた。
この平和な街にピストルの音がひびくのは、きっとなにか起こったにちがいない。
「なんだろう?」
 博士は南がわの窓をおしひらいて街を見おろした。
いつもとかわらぬしずかな景色だったが、しばらく耳をすませていると、ちょうど、『銀ねこ』酒場のあたりで、がやがやとさわぐただならない人声が、風にのってきこえてきた。
「酒場のあたりだな」
 博士はつぶやいて、なおもじっと、夕方の街を見おろしていた。
夕空はしだいにくら闇のいろにつつまれ、ほそい新月が夢のような姿をみせ、星もふたつみっつ数をましていった。
港にとまっている汽船に、あかりがつき、きらきらと宝石のようにきらめいているのが、とりわけ美しく思われた。
博士は、いつかピストルの音のしたことなどわすれてしまっていた。
さわぐ声もきこえなくなっていた。
博士は窓をしめ、もう一度、机のまえにすわった。
一時間ほどたったとき、玄関のベルがはげしくなった。
応対にでていくお手伝いの足音がした。
しかし、それっきり、なんの音さたもなかった。
「おかしいな? だれか訪ねてきたのではなかったのかな?」
 博士は、ふと気になった。
大いそぎでお手伝いをよび、
「いまのベルは、郵便配達だったのかね?」
「いいえ、だんなさま。
それがおかしいのでございますよ。
ベルはたしかになりましたのに、玄関にはだれもいないのです。

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