初級翻訳・透明人間 第15話

海野 十三

人もいなければ動物もいません。
ただ金貨だけがふわふわとかなりの速さで飛んでるんですよ。
わたしが近づいたとたんに、どこへともなく消えてしまったんです」
 かれらは口をそろえて言った。
「そして驚くじゃありませんか。
その金貨は、どうも、ほうぼうの金庫やぜに箱からとびだしてきたものらしいんですよ。
村の銀行の金庫からも、ちょうど片手でつかめるほどの金貨と、紙できちんと巻いた貨幣とが、ふいに空中に舞いあがり、驚く行員をしり目に、ふわふわと飛んで銀行をでてゆき、表通りにとびだすと、そのまま見えなくなってしまったそうだ」
 不思議なことのあったのは、銀行だけではなかった。
食料品を売っているこじんまりした店では、客につり銭をわたすために主人がぜに箱のふたをあけた。
そのとたん、主人はすぐ身近に人の気配がせまるような感じをうけた。
「おやっ?」
 主人は、あたりを見まわしたが、もちろん、店さきでまだ卵を熱心に見くらべている客よりほかに、だれもいなかった。
主人がぜに箱からつり銭をつまみだそうとすると、さっとぜに箱の中のひとつかみの金貨が空中へ舞いあがった。
「きゃっ!」
 主人は悲鳴をあげて、舞いあがった金貨のゆくえを見まもるばかりだった。
主人の悲鳴におどろいた客も、空中をとびながら店をでて大通りへ金貨が逃げていくのを見ると、すっかりたまげて、つり銭もうけとらず、いちもくさんにわが家へ逃げていった。
ポート・ストウ村は、ひっくりかえるような大さわぎになってしまった。
ほうぼうの店や宿屋から、手につかめるほどずつの金貨が空中をとんで消えていった。あちらの通りや、こちらの街かどで、人びとは金貨の飛んでいるのを見かけたが、人が近づくとふしぎなことに、金貨はさっと身をひるがえすようにかき消えてしまった。
こうして、ほうぼうの金庫や銭箱から舞いあがってきた金貨のゆくえを知ったら、村の人たちは、いまよりもっとおどろいたにちがいない。
金貨は人目をさけて、街の通りを飛びつづけて村はずれまでやってくると、そこの小さな宿屋のまえで、おどおどとあたりを見まわして心配そうに立っている、古びたシルクハットをかぶった男のポケットに、吸いこまれるようにはいっていった。
たすけてくれ!

 バードック町は、うしろになだらかな丘がある。
丘のふもとのバスの停留所のすぐ前の酒場『銀ねこ』では、さっきからまるまるとふとったおやじが、むちゆうになって、ひとりの客をあいてに、さかんに、競馬の話をまくしたてていた。
あいての男は、おやじとはまるっきりはんたいの、やせてひょろひょろした顔いろのわるい男で、商売は馬車屋だ。
おやじの言葉に、ときどきあいづちをうちながら、ビスケットにチーズで、ちびちびと酒を飲んでいた。
「なんだい? 表のほうがだいぶさわがしいようじゃないか」
 とめどのないおやじの話をうちきるように馬車屋が言って、立ちあがると、うす汚ないカーテンのすきまから、丘のほうをのぞいてみた。
「おい、なんだか、おおぜいの人が駈けていくぜ」
「どれどれ、ほんとうだ。
火事かもしれねえな」
 酒場のおやじが気のない調子で言ったとたん、ばたばたと足音が近づき、ドアをさっとひらいて、あの浮浪者のトーマスがとびこんできた。
髪をふりみだし、息をはずませて、上着のえりもはだけてしまっている。
れいの古びたシルクハットは、とっくにどこかへすっとんだらしく、頭へのっかっていなかった。
飛びこんでくるなり、トーマスは恐怖におののきながら、大声でさけんだ。
「やつが追ってくるんだ。
あっしのあとを追って……助けてくだせえ。
透明人間に追われているんです」
「透明人間がくるって……そいつはたいへんだ。
おいっ! ドアを閉めろ、ドアを閉めろ!」
 酒場じゅうの者が色を失ってさわぎたてた。
ちょうどきあわせていた警官は、さすがにほかの者たちよりは落ちついており、すぐに表のドアをしっかりとしめてやった。
おやじも台所のほうへすっ飛んでいくと、うら口のドアを力いっぱい、ひっぱってしめた。
「さあ、もう大丈夫だよ」
 警官が言ったが、トーマスは泣きださんばかりの声をふりしぼって、
「あっしをかくしてくだせえ。
どこかおくのほうの鍵のかかる部屋にかくしてもらいてえんです。
やつがあっしを追っかけてくるんです。
あいつはどんなところへでもはいってきますよ。
あっしのことを殺そうと思っているんです」
「どんなやつかしらないが、ここまでくれば大丈夫だよ。
ドアはしめたし、そちらに警官もいらっしゃるんだ」
 すみっこで、ひとりで酒をのんでいた、黒いひげをはやしたアメリカなまりの男が言った。
と、そのとき、ドアがはげしくたたかれた。
「透明人間だ! はやくどこかへかくしてくだせえ。
こんどみつかれば、きっと殺されてしまうんだ。
おお、神さま!」
「この中へはいったらいいだろう」
 おやじが、カウンターのはね板をあげた。
トーマスはあわててとびこんだ。
その間じゅう、ドアをたたく音はひっきりなしにつづいた。
「だれだ?」
 警官がどなりながらドアに近づいた。
トーマスは、それをみると泣き声をふりしぼって、
「戸をあけねえでくだせえ。
たのむからあけねえでくだせえ」
 黒ひげの男が、
「外で戸をたたいているのが、透明人間だというのか。
どんなやつか、見たいものだな」
 その言葉がおわるかおわらないうちに、すさまじい音をたてて、表通りのほうの窓ガラスがわれた。
「きゃっ!」
 トーマスがふるえあがって絶叫した。
「さあ、こちらへ来い」
 おやじは気をきかせてトーマスをおくまった部屋にかくし、鍵をかけてやってから、もとのところへもどってきた。
外では、かけまわるたくさんの人の足音とさけび声がいりみだれて、たいへんなさわぎだった。
警官はドアに近より鍵穴から外をのぞき見しながら、
「ほんとに透明人間らしいな。
警棒をもってくればよかった」
 黒ひげの男も警官のあとにつづき、
「ねえ、かまわないから、かんぬきをぬいてドアをおあけなさい。
やつがはいってきたら、ぼくがこいつに物を言わせましょう」
 そして、手にしたピストルを警官の目のまえに、にゅっとつきだしてみせた。
ピストルをみると警官は、あわてて手をふり、
「とんでもない、そいつはこまるよ、きみ。そんなものをふりまわして、相手が運わるく死んでみたまえ、殺人罪になってしまうよ」
「へっへっへ、そんなことはわかっているさ。
やつを殺してしまうようなへまはしないよ。
足をねらってやるのさ。
おれは足をねらう名人だからね。
さあ、かんぬきをはずしなさい」
 カーテンのすきまから外のようすをうかがっていたおやじは、あわててうしろをふりかえり、
「私をうらまないでくださいよ!」
と、大声でさけんだ。
「さあ、こい!」
 黒ひげの男は身がまえをとり、さっとピストルを背にかくした。
警官は、ちょっと思案していたが、いきなりかんぬきを、さっとひきぬいた。
しかし、ドアはしまったままで、だれかがはいってくる気配はまったくない。
二分たち、三分たった。
やはり、なんのかわったこともおきなかった。

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