やつの口から透明人間なんていうでたらめが飛び出して、あちこちへ広まっていったんですからね」
船員は、半信半疑の表情でトーマスの顔をじっと見つめた。
「だが、新聞に載っているし……それに、りっぱな人たちが証人になっているじゃないか」
「うそですよ、うそ!
だれが何と言ったって、うそに決まってますよ。
ばかばかしい、透明人間なんてものが今の世の中にいるはずがないじゃありませんか!」
トーマスは必死になって、頑固に言い張った。
船員は面白くなさそうな顔をして、
「それほどはっきりうそだと分かっているなら、なんだって最初からうそだと言わねえんだよ!」
「なにっ!」
二人はぐっと睨み合った。
今にもどちらかの拳が飛んできそうな、そんな険しい空気だった。
「トーマス、ぐずぐずするな、おれと一緒に来るんだ」
とつぜん、何もない空から声が響いた。
トーマスははっとした様子で、そのままおかしな腰つきのまま、ひょこひょこ歩き出した。
「逃げるのか!」
船員がうしろから怒鳴りつけた。
「逃げるもんか!」
トーマスはくるりと向き直ろうとしたが、まるで逆方向へと突き飛ばされるように、前へ前へとつんのめった。
そして、それきり振り返ることもせず、船員のそばから遠ざかっていった。
まるで誰かと口論でもしているような独り言が、いつまでも聞こえていた。
船員は大きく足を広げ、腰に両手をあてがって、遠ざかっていく相手をにらみつけながら、こう叫び続けた。
「あいつは新聞も読めねえんだよ!
なにがうそだい、目をかっぽじいて新聞をよく見ろ、ちゃんと詳しく書いてあるんだ、このまぬけめ!」
声が届かなくなるまで、彼はどなりまくっていた。
空中を飛ぶ金貨
このことがあってから二日ほど経ったある日、またしてもあの船員は、世にも不思議な出来事に遭遇した。
自分の部屋で、船員はゆっくりとコーヒーをすすっていた。
たっぷりと砂糖を放り込んだ濃いコーヒーを美味しそうに飲みながら、かたわらに置いてある新聞を眺めていると、
「おおい、あにき、あにき、いるかい!」
と、戸が割れんばかりに激しく叩かれた。
「なんだい、いったい誰だ! もう少し静かにしろ、戸が壊れるじゃないか。
叩くのをやめてさっさと入ってこい!」
そう言って迎え入れると、転がり込んできたのは仲間の若い船乗りだった。
「なんだい、そんなにひどく慌てて……いったいどんな大事件が起こったって言うんだい? まさかお前、透明人間にでもぶつかったとでも言うのかね?」
船員は仲間の顔をニヤニヤと笑いながらからかった。
「いや、透明人間じゃないさ。
だが、それと同じくらい気味の悪い、不思議なことなんだ」
「不思議なことだって? まあいいから、まずは落ち着きなよ。
コーヒーをごちそうするから、ゆっくり話したらどうだい」
やがて熱いコーヒーが運ばれ、若い船乗りは一息つくと、まだ興奮の冷めやらぬ様子で語り始めた。
「驚いたのなんのって、きょうほど度肝を抜かれたことは、今まで一度だってありはしねえよ! あにきだってその場に居合わせたら、きっと目が飛び出るほど驚いたに違いねえんだからな!」
「おれが驚くか驚かないかなんてどうでもいいから、その話ってのはいったいどんなことなんだい? おまえ、肝心なことはちっとも話してねえぞ」
「うん、そこだよ!
俺が今朝早く、セント・マイクル小路を歩いていたんだ。
まだ時間が早かったから街はしんとしていて、通行人といえば、俺のずっと先を歩いているお年寄りだけで、ほかに人の影は前にも後ろにも見えなかった。
俺は今度乗る船や、行き先の港のことなんかを考えながら歩いていたんだ。
その時、どういうわけか、ふいと横の壁に目をやったんだよ」
「うん、それで……?」
「そのとたんに、もうびじゅだまを抜かれたねえ。
ひとにぎりの金貨が、壁に沿って空中をふわふわと飛んでいたんだよ!
それを見たときの驚きといったら……俺は思わず何度も目をこすっちまった。
だが、何度見直しても、正真正銘の本物の金貨なんだ。
しかも、かなりの早さで飛んでいくんだからたまらない!」じっと見つめているうちに、すこし驚きがおさまると、欲がむらむらっとわいてきたんだ」
「その金貨を、自分のものにしようとしたのかい?」
船乗りはいつの間にか、若い仲間の不思議な話に引きこまれて、熱心に聞いていた。
「お恥ずかしいが、そうなんだ。
あたりに人はいない、金貨は持ち主がいるようでもなし、ちょうど手のとどくところを飛んでいるんだ。
俺は、一枚や二枚ちょうだいしたって、大して悪くはあるまいと考えたので、ひょいと手をのばして、その金貨をつかもうとした」
「うまくつかめたのか?」
「いいや、手をのばしたとたん、いきなり強い力でなぐり倒されて、その場にばったりと倒れてしまった。
ひどく腰を打ってのびてしまったが、かろうじて痛みをこらえて立ちあがったときには、金貨は蝶々が舞うように、ふわふわとマイクル小路のかどへ消えていったんだ」
「おまえ、夢でも見ていたのじゃないか? ゆうべ、ぐっすり眠ったのかい?」
船乗りが疑り深い調子でいうと、若い仲間は、不平そうにほおをふくらまし、
「いやになるなあ、あにきまでがそんなことを言うのですかい? 俺の腰は、その時すごい力でなぐり倒されて、いやっというほど地面に打ちつけたので、いまでもずきんずきん痛んでますよ。
俺だってさっきまで、金貨が空中をふわふわ飛ぶなんてことがあるとは思ってませんでしたよ。
だけど、はっきり自分の目で見たんです。
これよりたしかなことはありませんよ。
俺は金貨がマイクル小路のかどに消えてゆくまで、じっと見ていて、その足であにきのところへかけつけてきたんだよ」
「そうか、では、まんざらうそでもなさそうだし、おまえが寝ぼけていたわけでもないんだね。
とすると、ずいぶん不思議で気味の悪い話じゃないか」
「そうなんだよ。
俺も金貨が見えてる間は無我夢中だったが、金貨が消えてしまったとたん、ぞっとしたね。
がたがたふるえてきて、どうしてもとまらねえんだ。
このごろは変なことばかり続くじゃないか。
透明人間だなんて恐ろしいやつのことを、新聞がでかでか書きたてたと思うと、金貨が空中をとびまわる。
俺はなんとなくおそろしくてしかたがないよ」
船乗りは、その時、なぜともなく宿屋の前で会ったシルクハットをかぶった妙な男のことと、そのとき空中からきこえた声のことをふっと思いだした。
(俺も頭がどうかしているのかな。
あのときふいに空中から声がきこえてきたような気がしたが……空耳だと思っていたが、もしかすると、ほんとに空中からきこえたのかもしれないぞ。
金貨が空中を飛ぶなら、空中から声がきこえても不思議ではないかもしれん)
ひとりですっかり考えこんでしまった。
若い仲間もだまりこんで、やけにたばこばかり吸っていた。
金貨が空中を飛ぶということは、どうやら本当のことだったらしい。
その証拠にポート・ストウ村では、一日じゅう、ほうぼうの物かげやへいのそばを、金貨がふわふわと飛んでいた。
そのようすを見たという人は何人もいた。
「ええ、そうですよ。
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