初級翻訳・透明怪人 第25話

江戸川 乱歩

」

のろいの影

 それからすこしたって、明智探偵事務所の、広い応接間に、明智夫人文代さんをかこんで、中村係長、黒川記者、小林少年の三人が、思いおもいのイスにこしかけていました。
その応接間は、道路に面した一階にあるので、窓のカーテンをしめ、電灯も大きな電気スタンドだけにして、わざと、部屋の中をうすぐらくしてあるのです。
文代さんは、丸テーブルによりかかるようにして、なにか話しています。
「さっき、お電話があってから、わたくし、明智をおくった自動車の運転手を、ここへ呼んで、話をきいたのですが、明智がつれさられたことは、もう、うたがいありません。
そのとき通りかかったタクシーというのが、悪者の自動車だったのです。」
 そして、文代さんは、そのときのありさまを、くわしく話しました。
「その、あやしいタクシーの番号は?」
 中村係長が口をはさみます。
「それが、ざんねんなことに、運転手は自分の自動車の修理に気をとられて、番号を見なかったと言うのです。」
「そうですか。
とにかく、そのタクシーの色と型を、本庁へ知らせて、全管下に手配させます。」
 係長は、すぐさま、卓上電話をとって、文代さんからタクシーの型と色を聞きながら、テキパキと手配の事務をすませました。
そして、受話器をおいたときです。
まちかまえていたように、電話のベルがなりだしました。
小林少年が、すばやく受話器をとって、耳にあてましたが、ちょっとあいての声をきいたかと思うと、小林君の顔色がサッとかわりました。
そして、「へんな声です。
聞いてください。」と、受話器を中村係長に、わたしました。
「オイオイ、何をグズグズしているんだ。
文代夫人はいないのか。
文代さんに話があるんだ。」
 みょうな、しわがれ声が、ぶさほうにどなっているのです。
「きみはいったいだれだね。」
 中村係長がしずかにたずねます。
「だれでもいい、文代さんがでれば、わかるんだ。
早く文代さんをださないか。」
「きみの名を言わなければ、とりつぐわけにはいかんよ。
名をなのりたまえ。」
「そう言うきみこそ、だれだ。
明智事務所には、いま男はいないはずだが。」
「ぼくは警視庁の中村だ。
さっき道化師のサンドイッチ・マンにもお目にかかった。
おどかしの手紙もたしかに見たよ。」
「ウハハハ……、中村鬼係長か。
透明怪人には、てこずっておるな。
おれはその透明怪人のうみの親だよ。
明智名探偵先生も、おれにかかっては、子どもみたいなもんじゃ。
いま手術中だよ。
あすはすっかり透明になるはずだ。
ところで、おつぎのばんじゃが、わしは文代さんときめた。
だんなだけ透明にしておくさんをひとりぽっちでのこしておいては、気のどくだからね。
わかったかね。
文代さんを、今晩のうちに、ちょうだいにゆく。
鬼係長どのが、いくらがんばっても、こちらは目に見えない透明人間を使うのだからね。
とても、太刀打ちはできやしないぜ。
それじゃ、文代さんによろしく。
あばよ。
おっと、まってくれ。
きみがあわててしらべないでもいいように、おしえておくが、この電話は渋谷の公衆電話だよ。
おれのかくれがから、まるではんたいの方角まで、わざわざ電話をかけにやってきたのさ。
それじゃ、鬼係長さん、あばよ。」
 あいてはひとりで、しゃべって、そのまま電話をきってしまいました。
言うまでもなく、れいの四角メガネの怪老人です。
さすがの中村係長も、思うままにしゃべりまくられたかたちで、くやしそうになみだをかみながら、受話器をおきました。
いよいよ、文代さんがねらわれていることがわかったので、それから、文代さんをまもる方法について、相談がはじまりました。
それには、小林少年がたえず文代さんのそばにつきそっていること、中村係長も黒川記者も、今夜は明智事務所にとまること、そのほか、本庁から三名のうでききの刑事を、電話で呼びよせ、家の中の見はりにつかせること、また警察に電話して、数名の巡査に、探偵事務所のまわりを、巡回させること、などをとりきめ、それぞれ電話をかけおわりました。
「おくさん、ごしんぱいなさることはありません。
これだけ手配をすれば、まずだいじょうぶですよ。」それにわれわれ三人はあなたのそばを離れないようにして、必ずお守りします。」
係長が言うと、気丈な文代さんは顔色一つ変えずに、健気にこう答えました。
「ありがとうございます。
これで私も心強いですわ。
でも、明智を助け出さなければなりません。
自分のことより、そのほうが心配なのです。」
「それもわかっています。
捜査本部には私以外にもたくさんの係長がいますし、名刑事もいます。
それに東京中の警察署が力を合わせているのですから、きっと助け出しますよ。」
中村係長は文代さんを励ますように、力強く言い切ってみせるのでした。

そのときです。
カーテンをぴしゃりと閉め切った窓が、まるで稲妻でも走ったように、パッと明るくなりました。
その窓は表の道路に面しているため、通りかかる自動車が街角を曲がるときなどに、ヘッドライトの光が当たって、そんなふうに明るくなることがあるのです。
文代さんも小林君も、車のヘッドライトの光だろうと気にもとめなかったのですが、どうしたわけか、まっ白な光は窓を照らしたまま、じっと動かないのです。
変だなと思っていると、やがてその白くなったカーテンの上に、何やらぼんやりとした影がうつってきました。
おお、またしてもあのおそろしい怪物の影です。
モジャモジャの髪の毛、ワシのような鼻、三日月形に開いた大きな口――透明怪人の横顔です。
怪物の裸の上半身が、普通の人間の三倍の大きさで、カーテンの上で黒くうごめいているのです。
「エヘヘヘヘ……。」
ガラスの外から聞こえてくる、薄気味の悪い、あざ笑うような声。
「ちくしょうッ!」
ガタンと椅子の音がして、黒川記者が立ち上がりました。
そして、影がうつっているカーテンに向かって、弾丸のように飛びかかってゆきました。

第二の道化師

窓を開けても、いつものように影の主はどこにも見当たりません。
黒川記者は舌うちしながら、席に戻るほかはありませんでした。

さて、その夜十時ごろになると、文代さんは寝室のベッドに入り、小林少年はその左側の自分の寝室へ、中村係長と黒川記者は文代さんの部屋の右側の客用寝室へと引き上げました。
三人の刑事は徹夜の覚悟で、二人は裏庭に、ひとりは玄関に陣取っています。
ただでさえ静まり返った寂しい屋敷町です。
夜が更けるにつれて遠くからの物音も途絶え、そのあたり一帯はまるで大きな森の中にでも迷い込んだかのように、しんしんと静まり返っていました。

真夜中の十二時を過ぎ、一時近いころ、探偵事務所の裏庭の外で、ちょっとわけのわからない、奇妙な出来事が起こりました。
探偵事務所は明智の自宅も兼ねており、百平方メートルほどの裏庭にはさまざまな木が美しく植えられているのですが、二人の刑事はよく茂ったヒノキの陰に椅子を持ち出して腰掛け、木の枝のあいだ目を光らせて四方に気を配っていました。
ただ腰掛けているだけではありません。

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