あたりがすっかり静まりきったのは、もうその日もだいぶん晩くなってからでしたが、そうなってもまだ哀れな子家鴨は動こうとしませんでした。
何時間かじっと坐って様子を見ていましたが、それからあたりを丁寧にもう一辺見廻した後やっと立ち上がって、今度は非常な速さで逃げ出しました。
畑を越え、牧場を越えて走って行くうち、あたりは暴風雨になってきて、子家鴨の力では凌いで行けそうもない様子になりました。
やがて日暮れ方、彼は見すぼらしい小屋の前に来ましたが、それは今にも倒れそうで、ただ、どっち側に倒れようかと迷っているためにばかりまだ倒れずに立っている様な家でした。
あらしはますますつのる一方で、子家鴨にはもう一足も行けそうもなくなりました。
そこで彼は小屋の前に坐りましたが、見を見ると、戸の蝶番が一つなくなっていて、そのために戸がきっちり閉っていません。
下の方でちょうど子家鴨がやっと身を滑り込ませられるくらい透いているので、子家鴨は静かにそこからしのび入り、その晩はそこで暴風雨を避けることにしました。
この小屋には、一人の女と、一匹の牡猫と、一羽の牝鶏とが住んでいるのでした。
猫はこの女御主人から、
「忰や」
と、呼ばれ、大の御ひいき者でした。
それは背中をぐいと高くしたり、喉をごろごろ鳴らしたり、逆に撫でられると毛から火の子を出す事まで出来ました。
牝鶏はというと、足がばかに短いので
「ちんちくりん」
という綽名を貰っていましたが、いい卵を生むので、これも女御主人から娘の様に可愛がられているのでした。さて、朝になって、ゆうべ入ってきた変わったお客さんは、すぐにネコたちに見つかってしまいました。
ネコは「ゴロゴロ」ととのを鳴らし、メンドリは「クックッ」となき立てはじめました。
「なんだい、その大さわぎは」
とおばあさんは部屋の中を見まわして言いましたが、目がよく見えないものですから、子ガモに気がついたとき、それを、どこかの家から迷い込んできた、いい具合に太ったメスガモだと思いこんでしまったのです。
「いいものがやって来たぞ」
とおばあさんは言いました。
「オスガモでさえなけりゃいいんだがねえ。そうすればガモの卵が手に入るというもんだ。まあ、ようすを見てやろうじゃないか」
そこで子ガモは、試しに三週間ばかりそこに住むことをゆるされましたが、卵なんか一個だって生まれるわけがありませんでした。
この家では、ネコが主人のようにふるまい、メンドリが主人のようにいばっています。そして、なにかにつけて、
「われわれこそはこの世界の中心だ」
と言うのでした。というのも、自分たちこそが世界の半分を占めていると本気で思いこんでいたからです。
ある日、メンドリが子ガモに向かって、
「お前さん、卵は産めるのかい?」
とたずねました。
「いいえ……」
「それじゃあ、なにも口出しなんかする資格はないねえ」
メンドリはそう言うのでした。
今度はネコの方から、
「お前さん、背中を高くしたり、のどをゴロゴロならしたり、火の粉を出したりできるかい?」
と聞いてきます。
「いいえ……」
「それじゃあ、われわれ偉い方々がなにかものを言うときでも、意見を出したりしちゃいけないぜ」
こんなふうに言われて、子ガモはひとりでショボボーンと落ち込みながら、部屋の隅っこに小さくなっていました。
そのうち、あたたかい日の光や、そよ風が戸のすき間から毎日入ってくるようになり、そうなると子ガモは、もう水の上を泳ぎたくて泳ぎたくてたまらない気持ちがわき出してきて、とうとうメンドリに打ち明けてしまいました。
すると、
「ばかなことをお言いじゃないよ!」
と、メンドリは一言のもとにけなしつけるのでした。
「お前さん、ほかにやることがないもんだから、そんなばかげた空想ばかりするようになるのさ。もし、のどを鳴らしたり、卵を産んだりできれば、そんな考えはすぐに頭から消えちまうんだがね」
「でも、水の上を泳ぎまわるのは、本当に気持ちいいんですよ!」
と子ガモは言いかえしました。
「まあ、水の中に頭までぐっともぐってごらんなさい。頭の上を水が流れるときの、あの気持ちよさといったら!」
「気持ちいいだって!? まあ、お前さん、頭でもおかしくなったんじゃないかい。誰よりもかしこいここのネコさんにでも、おばあさんにでも聞いてごらんよ。水の中を泳いだり、頭の上を水が通ったりするのがいい気持ちだなんておっしゃるかどうかね」
メンドリはムキになってそう怒鳴るのです。
子ガモは、
「あなたには、僕の気持ちはわからないんだ」
と答えました。
「わからないだって? まったく、そんなばかげたことは考えない方がいいよ。お前さんはここにいれば、あたたかい部屋はあるし、私たちからいろんなことが習えるというもの。私はお前さんのためを思って言ってあげてるんだからね。とにかく、まあできるだけはやく卵を産むことや、のどを鳴らすことを覚えるようにしなっ!」
「いや、僕はもうどうしても、また外の世界に出なくちゃいけないんだ」
「そんなら、勝手にするがいいさね!」
そこで子ガモは、その小屋を出て行きました。
そしてまもなく、泳いだりもぐったりできるような水のほとりにやって来ましたが、そのあまりの不格好さのために、相変わらずほかの生き物たちからはじゃま者にされ、追い払われてしまったのです。
そのうちに秋が来て、森の木の葉はオレンジ色や黄金色に変ってきました。そして、だんだんと冬が近づいて、葉が散ってしまうと、冷たい風がつかまえた落葉を冷え切った空中にまき散らすのでした。
あられや雪をふらせそうな雲が空に低くたれこめ、大きなカラスがシダの葉の上に止まって、
「カー、カー」
となき鳴いています。
それは一目見るだけで、寒さにブルブルと震え上がってしまうような光景でした。目に入るものすべてが、子ガモにとって悲しい思いをますます募らせるばかりです。
ある夕方のことでした。ちょうどお日様が、きらきら光る雲のあいだに隠れたあと、水草の茂みの中から、それはそれはきれいな鳥たちの大きな群れが飛び立ってきました。
子ガモは、これまでの人生でそんな鳥を一度も見たことがありませんでした。
それはハクチョウという鳥で、みんなまばゆいほど白い羽を輝かせながら、そのすらりとした格好のいい首を曲げたりしています。
そして彼らは、その立派な翼を大きく広げ、この寒い国からもっとあたたかい国へと、海を越えて飛んでいくときは、みんな不思議な美しい声で鳴くのでした。
子ガモは、みんなが連れだって空高くへとだんだん昇っていくのを、一心に見つめているうち、胸が言いようのない不思議な気持ちでいっぱいになりました。
それは、思わず自分の身を車輪か何かのように水の中に投げ出し、飛んでいくみんなの方に向かって首をのばし、大きな声で叫びたい衝動でした。そして実際に叫んでみますと、それは自分でもびっくりするほど、今まで聞いたこともないような奇妙な声が響いたのでした。
初級翻訳・醜い家鴨の子 第3話
アンデルセン ハンス・クリスチャン
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