初級翻訳・鉄塔の怪人 第5話

江戸川 乱歩

机の下や引き出しの中まで調べてみましたが、一匹も見つかりません。
まるで幽霊のように消え失せてしまったのです。
あとでそのことをふたりがお父さんに話しますと、お父さんの太一郎さんは変な顔をして考え込んでおられました。
いよいよあの村瀬という男が、嫌がらせをはじめたのかと、なんだか心配になってきたからです。
やはり、その同じ晩の十時ごろのことです。
今度は書生の広田が、恐ろしいものを見たのです。
広田青年は高橋さんに見込まれて大学へ通わせてもらっており、学校から帰ると書生としていろいろな用事をしているのです。
その広田がいつものように門の鍵を閉めて家の中へ入ろうとすると、庭の方で何かがゴソゴソと動いていました。
その晩は月が出ていたので、庭の木や草は霜が降りたように白く見えていました。
その庭の中を、何か大きな黒いものがゴソゴソと裏手の方へ這っていくのです。
犬や猫ではありません。もっと変てこなものです。
広田は足音をしのばせて、その怪しいもののあとを追いました。
なんだか恐ろしい夢にうなされているような気持ちでした。
月の光は庭いっぱいに降り注ぎ、コンクリートの西洋館の裏側を白々と照らしていました。
その中を、黒い巨大な怪物がゴソゴソと這っていくのです。
真っ黒な背中、そこに白く浮かび上がっている奇怪な模様、曲がった長い足、グーッと上を向いた黒い一本のツノ、ギラギラ光る二つの丸い目。
広田はそのものの正体を見極めると、ギョッとして思わずその場に立ちすくんでしまいました。
そのとき、怪物のほうでも這うのをやめて、じっと動かなくなりました。
そして頭をグーッと曲げて、二つの光る目をこちらに向けたのです。
広田はハッとして、建物のかげに素早く身を隠しました。
「見つかったかもしれない。怪物はあのおそろしいツノを振り立てて、こちらへ向かってくるのではないだろうか」
と思うと、胸がドキドキしてきました。
怪物はしばらくの間、頭をこちらにねじ向けたままじっとしていましたが、広田に気づいたわけでもないらしく、そのまままた向こう向きになって、長い足でゴソゴソと這っていきます。
広田は建物のかげから、辛抱強くそれを見守っていました。
怪物は月光の中を這いつづけて建物に近づき、一つの窓の下に止まりました。
それは壮一、賢二兄弟の勉強部屋の窓です。広田はそれを見て、「やはりそうだったか」と、思わず両手をギュッと握りしめました。
怪物の前足が壁にかかりました。そして、ゴソゴソと動いているうちに、やつは後ろ足でスッと立ち上がったのです。前足は窓の敷居に届き、二つの目が窓の中をじっとのぞき込んでいます。怪物が立ったおかげで、その背中がはっきりと見えるようになりました。大きくツヤツヤと光る背中が、月光に照らされて不気味に輝いています。そしてそこには、あのおぞましい骸骨の顔が、まるでリンのように青白く光っているのです。

広田は、まるで夢を見ているような心地でした。この世に、これほど恐ろしい光景が他にあるでしょうか。彼は月光に照らされたこの巨大な妖虫の姿を、一生忘れることができないでしょう。勉強部屋の窓のガラス戸は半分ほど上へ押し上げられ、ポッカリと黒い四角い穴になっていました。部屋の中の電灯は消えていて、誰もいないようです。怪物は左右に首を振って、ギロギロと光る目で部屋の中の様子をうかがっていましたが、やがてその角の生えた首をグッと窓の中へ差し入れました。それと同時に長い足を忙しく動かしたかと思うと、いつの間にか怪物の体は地面を離れて壁をよじ登り、グイグイと窓の中へ入っていくのです。やがてお尻だけが窓の外にはみ出し、不気味な長い足をモガモガと動かしていましたが、それもすぐに窓の中へと隠れてしまいました。怪物はついに、兄弟の勉強部屋へ侵入してしまったのです。村瀬という男は嘘を言っていませんでした。賢二少年は、今にもさらわれようとしているのです。しかも、あの見るもおぞましい妖虫の長い足に抱えられて、どこかへ連れ去られようとしているのです。

奇怪な消失

不気味な妖虫の姿が賢二少年たちの部屋の中に消えてしまうと、広田は急に慌てだしました。もう夜の十時なので、勉強部屋には誰もいません。兄の壮一君も弟の賢二君も、別の部屋で寝ていたからです。しかし、カブトムシはその寝室までもゴソゴソと這っていくかもしれません。そして、賢二君をあの長い足でつかんで、どこかへ連れ去るかもしれないのです。広田はそれを思うと、もうじっとしていられません。いきなり勉強部屋の外へ駆け寄ると、今しがたカブトムシの入っていった窓によじ登り、真っ暗な部屋の中へ飛び込みました。

部屋の隅に身をかがめてじっと耳を澄ましても、何の音も聞こえません。あれほど大きな虫がもし部屋の中にいるとすれば、何らかの音がするはずです。それがシーンと静まり返っているのを見ると、怪物はもう部屋から廊下の方へ出ていったのかもしれません。広田はおずおずとスイッチのところへ近づき、パッと電灯をつけました。やっぱり、部屋の中には何もいません。怪物は廊下に出てしまったのです。

「大変です! 誰か来てください! カブトムシが、カブトムシが……!」

広田は思い切り怒鳴っておいて、死にものぐるいの勇気を出し、廊下へと飛び出していきました。廊下には電灯がついているので一目でわかります。左は行き止まりですから、右の方を見ればよいのですが、長い廊下には何もいません。廊下の向こうには居間や茶の間や寝室があるのですが、広田の怒鳴り声に、その方から主人の高橋さんがびっくりして廊下へ駆け出してきました。その後ろに奥さんや女中さんの姿も見えました。寝ていた壮一・賢二の兄弟も、寝間着のまま外へ飛び出してきました。

「広田、どうしたんだ。何事だ!」

高橋さんが大声で尋ねました。

「カブトムシです! お化けカブトムシが、この廊下へ入り込んだのです!」

広田は息を切らしています。

「どこに? 廊下には何もいないじゃないか」

「ほかへ行く暇はありません。ぼくはすぐあとから追いかけたのですから。妙だなあ、たしかにこの廊下にいるはずなんだが。そちらの茶の間の方へは行かなかったでしょうね」

「来るはずがないよ。わたしたちがいたんだからね」

「すると、どこにも逃げ道はないはずですね。不思議だなあ」

「おまえ、夢でも見たんじゃないのか」

「いいえ、決して夢なんかじゃありません!」

広田はそこで、庭で見たことを手短に話しました。

「広田さん、お父さんの書斎のドアが少し開いているよ。あの中、見たの?」

壮一少年が目ざとくそれに気づいて、遠くから声をかけました。みんなの目が、そのドアに注がれました。たしかに、四センチか五センチほど開いています。
この廊下の、勉強部屋から茶の間までのあいだには、右側に主人の高橋さんの大きな書斎が一つあるきりで、左側はずっと壁になっています。
もし怪物が逃げ込んだとすれば、この書斎のドアのほかには考えられません。
「書斎の窓には格子がはまっている。もしここへ入ったのなら、袋のネズミだ」
高橋さんはそう言って、広田に目配せをしました。ドアを開けてみろという意味です。

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