今日は遠くへ使いに行っていて留守です。先生の奥さんも女中を連れてお出かけで、うちには先生とぼくとふたりきりですよ。ぼくは近ごろ先生の助手になった近田という者です。これでも名探偵のたまごですよ」
と、この青年、なかなかの話し好きです。
やがて書斎の前に来ると、助手は軽くドアをノックして、「高橋さんのお使いの方です」と大きな声で言いました。すると中からドアが細めに開いて、明智探偵のモジャモジャ頭がチラリと覗きました。
「使いの人だけ入りなさい。近田、きみはベルを鳴らすまで用事はない。あっちへ行っていなさい」
なるほど、不機嫌そうな声です。
中に入ってみると、写真でおなじみの明智探偵が、今日も黒い背広を着て立っていました。明智は広田が部屋に入るのを待って、ドアにピチンと鍵をかけました。そして、正面の大デスクの向こう側に回ると、そこの椅子にどっかりと腰掛けて、客に言いました。
「お座りなさい」「……」とも言わず、ただ黙って、こちらをじっとにらみつけています。
広田は、丁寧にお辞儀をしてから、デスクの前の椅子に、おずおずと腰を下ろしました。
「どんな用件だね」
いつもニコニコしている明智とは違って、まるで苦虫を噛み潰したような、険しい顔です。
「電話では詳しいお話をしなかったかもしれませんが、実は、このごろ新聞で騒がれている『妖虫事件』のことです」
妖虫事件といえば、名探偵ならきっと身を乗り出してくると思ったのに、いっこうにそんな様子は見せません。
「うん、それで?」
ただ続きをうながすばかりです。
そこで広田は、昨夜のできごとを詳しく話しましたが、明智はなにを聞いても少しも驚きません。無表情な顔で、「うん、うん」と聞いているだけなのです。
「賢二ぼっちゃんを守ることが第一ですが、そのうえ犯人がつかまれば、これほどありがたいことはありません。どうでしょう、ひとつ、この事件をお引き受けいただけないでしょうか」
広田はそこで言葉を切ってじっと返事を待っていましたが、明智はやっぱりこちらをジロジロと見ているだけで、何も言いません。なんだか、薄気味悪くなってきました。
「どうでしょうか。先生、ぜひ承知していただきたいのですが……」
「きみは、ぼくにそれを頼みたいというのかね」
明智の目つきが、急に変わったように見えました。声の調子もどこか違っています。
広田はなぜかドキッとして相手の顔を見つめていると、明智はますます変なことを言い出しました。
「きみに聞くがね。きみはいったい、だれと話をしていると思っているんだ?」
「むろん、先生とですよ。事件の依頼に来たのです」
「先生って、だれだね」
「明智小五郎先生です」
広田は、あまりにバカバカしい問答に、思わず声が高くなりました。
「ホホウ、明智小五郎。ぼくが、その明智小五郎だとでもいうのかね」
広田はびっくりして、椅子から腰を浮かせました。
「あなたは、明智先生じゃないのですか?」
「わしが明智に見えるかね」
「え、なんですって?」
「おれが明智に見えるかと聞いたのさ。ハハハハ……。おれも変装がうまくなったものだなあ。アハハハ……」
その笑い声を聞くと、広田ははっとあることに気づきました。
「さては、きみは『お化けカブトムシ』の同類だな!」
「ハハハ……、そのとおり。きみはなかなか頭がいいよ」
「で、ぼくをどうしようというのだ」
「ちょっと、とりこにしておくのさ。おっと、逃げようったって逃げられやしないよ。そうそう、そこに立っていなさい。いま、明智探偵の発明したカラクリ仕掛けをお目にかけるからね。名探偵さん、いいものを発明しておいてくれたよ……」
その言葉が終わらないうちに、恐ろしいことが起こりました。広田青年の足の下の床板が、スーッと消えてしまったのです。
あっという間に、広田の体は下へ下へと、恐ろしい勢いで落ちていきました。めまいがして、何がなんだかわからなくなったかと思うと、ガクンと背骨が折れるような痛みを感じて、そのまま意識が遠のいてしまいました。
「ハハハ。どうだね、穴ぐらの居心地は? きみは昨夜、カブトムシを見つけて騒ぎ立てた張本人だ。きみさえいなければ、うまくいったのだ。その罰だよ。まあ、そこでゆっくり寝ていたまえ……」
そして、バタンという音がしたかと思うと、あとは墓穴のような暗闇に閉ざされてしまいました。それは、本物の明智探偵が悪人を捕らえるために作っておいた、落とし穴だったのです。
さて、偽の明智探偵は、広田を閉じ込めておいて、これから何をしようというのでしょうか。
◇ 探偵七つ道具 ◇
広田青年は、あっという間に穴の底に落ち込み、何かにひどく腰をぶつけたかと思うと、そのまま気を失ってしまいました。
それからどれほど時間がたったかわかりませんが、ふと気がつくと、あたりは真の闇で、倒れた体の下は硬いコンクリートの床でした。腰の痛さをこらえて少し起き上がり、手であたりを探ってみましたが、何の手応えもありません。案外広い地下室です。
広田は、このまま暗闇の中で餓死してしまうのかと思うと、ガタガタと体が震えるほど怖くなりました。まるで熱い黒ビロードの布で目隠しでもされたような暗さです。
そのときです。広田は、餓死よりももっと恐ろしいことに気づきました。地下室には、何かがいるのです。かすかに、何かが動く音が聞こえてきます。
その何者かが、じりじりとこちらへ近づいてくるようです。
広田はゾッとしました。
背中に骸骨の模様がある、あの大カブトムシを思い出したからです。
あのおそろしいカブトムシが、この真っ暗な地下室で待ち構えていて、自分に危害を加えようとしているのではないか。そう思うと恐ろしくてたまりません。
ガサガサと、はっきり聞こえます。
こちらへ這い寄ってくるのです。
その音が、だんだん大きくなってきました。
もう一メートルほどのところまで近づいています。
「だれだ! そこにいるのは、だれだ!」
広田は思わず大声を張り上げて、身構えました。
すると不思議なことに、怪物が人間の言葉で答えたのです。
「高橋さんのお宅の広田さんでしょう。ぼくですよ、ぼくですよ」
「ぼくって、だれだ」
広田はまだ油断しません。もし飛びかかってきたら取っ組み合いをするつもりで、身構えています。
「ウフフフ、怪しい者じゃありませんよ。小林ですよ。明智探偵の少年助手、小林ですよ。ほら、触ってみてください」
広田は手を伸ばして触ってみました。
毛織りの学生服の手触りです。金ボタンもついています。
だんだん上のほうへ手をやると、少年らしいやわらかい頬がありました。
「ああ、それじゃきみは小林君か。本当に小林君だろうね。偽物じゃないだろうね」
広田は、明智探偵の偽物にこりているので、念を押しました。
「偽物じゃありませんよ。偽物だったら、こんな地下室に閉じ込められているはずがないじゃありませんか」
「ふーん、すると、きみも悪人のためにここへ落とされたのか」
「そうですよ。あいつ、なんて変装がうまいんだろう。ぼくも本物の明智先生だと思って油断したのです。そして落とし穴へ落とされてしまったのです」
「明智探偵事務所には、もとからこんな落とし穴があったの?」
「ええ、あったのです。
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