そもそも、戸狩の百姓たちに火薬の作り方を教えたのが、村上義清に仕えていた兵助の先祖だといわれており、それが三百年の時の流れの中で、まるで雀が蛤に化けるような例え通り、ほとんど農業を捨てて本職の花火職人に成り代わってしまったというのが、この土地に伝わる沿革なのです。
花火という怪しくも美しい火の魔術が、インドの仏教祭礼から始まり、南ヨーロッパへ、中国へ、そして鉄砲が伝来するのと前後して日本へ伝わってからというもの、諸国で花火の技術を競い合う風潮が盛んになりました。
特に、町人文化が花開いた徳川時代の文化・文政期以降、その崩壊時代に入って刹那的な享楽気分が迎えられると、ますますその傾向は顕著になりました。
しかし、江戸では相次ぐ火災や死傷事故を受けて一時的に禁止令が出されました。するとその反動で、花火熱は地方でより高まりました。国際的な花火の街である長崎は有名ですが、九州では赤間、三河では岡崎、尾張では木賊(とくさ)、越後では三条、そして信州では戸狩が知られるようになり――特に戸狩の花火は、松代藩主の真田公が自慢するほどのものでした。
今でこそ長野県では二尺玉も珍しくありませんが、当時は八寸玉が限界で、それ以上大きな花火は日本の空で見られることはありませんでした。
――その八寸玉が初めてできた時、将軍家の船遊びに合わせて真田公が戸狩の花火職人を連れて行き、中洲の三又で打ち上げたことがあります。
それを見て笑った大名がいました。三州岡崎城の本多公です。
「手前の国元では、あのような花火を『草花火』と呼んでおり、女子供が打ち上げております」
戸狩の花火職人たちは憤慨しました。
しかし、それは二十年も前のことなので、今度の問題が直接そこに起因しているわけではないでしょうが、常に張り合ってきた三河と信州が、ある動機から火蓋を切り、双方で挑戦状を突きつけたのです。
「煙火試合(はなびじあい)!」
甲の国と乙の国の花火職人が、星の輝く夜空を競技場として、火焔の魔術戦を繰り広げるという例は、この他にも珍しくはありません。
――その結果でした。
戸狩の村人全員が、冬から必死になって製作していたのは、三河との競技において敵を驚かせ、ひっくり返らせるために、寝食を忘れて作っていたものだったのです。
もちろん、これは花火職人同士の争いとして、表向きは藩が関知しないような顔をしていましたが、裏側では敵方にも本多公が後ろ盾となっていましたし、松代藩もまた躍起になって戸狩の者たちを叱咤激励していました。
その三河と信州、両国の花火試合は、いよいよ今年の秋に決まりました。
場所は信州側から出向いて、三州長篠の原。
――いわゆる「煙火陣」です。
実際にそれが始まると、本物の戦さのようで、小荷駄(こにだ)や押太鼓など、戦国の習慣に則って正々堂々と陣を布き、技術を競い合うものだったのです。
その際、審判は他国から長老を招きます。
若い花火職人は全員、革の襷(たすき)をかけ、長い脇差しを差します。指揮役の老人や審判、土地の代官などは、全員が陣羽織に小具足という姿で現れます。
指揮役の命令に従わない花火職人は、その場では斬られても仕方がないという決まりになっていました。
それほどまでに厳粛で、また、それほどまでに熱中したのです。
だいぶ話が逸れましたが、そんなわけで、戸狩の連中は、
「三河万歳め。戸狩の尺玉をぶっ放されて腰を抜かすなよ」
と、意気込んでいたのです。
長崎から買い入れた西洋の薬品や硝石、その他の材料はすべて藩の手で供給され、五人の狼火方たちが冬からずっと詰め切りで助力していたというわけでした。さて、彼らは月に三回、兵助の屋敷に集まっては作戦を練ったり、研究をしたり、準備に余念がない様子でしたが、それはまた仕事の合間の息抜きであり、一つの楽しみでもありました。
夕暮れ時になると、ぞろぞろと連れ立って兵助の屋敷へやって来ます。彼らはまるで里親の家へでも来たかのように、勝手に風呂に入ったり、台所を手伝ったり、座敷の準備をしたりして、それからようやくお客様として、奥の広間に年齢順にずらりと居並ぶのです。
上席には、応援役兼目付として藩から来ている五人の侍。
その脇の書院窓の所には、ちょこなんと主人の兵助が座っています。
あとは左右の障子とふすまに沿って、村の煙火師たちが、老若合わせて七十人ほどもいるでしょうか、黒々と居並ぶ様子は、鎌倉山のごとく煌びやかな星々とはいきませんが、なかなか物々しい会議の風景でした。
四
兵助はもう六十に近い、穏やかな顔立ちの山侍で、いつも羽織の背中を丸め、座禅を組むように手を重ねたままです。
「これで、揃ったようでございますが」
やがて兵助がそう言うと、蜂屋慎吾が前の方から人数を数えていて、
「いや、まだ一人見えん」
と、自分の頭の良さを誇るように、顔をしかめて見せました。
席の中ほどから、その遅刻者に代わって言い訳をする声が聞こえました。
「へえ、その七之助ならば、実は草津にいる伯母の容体が悪いというので、一昨日、山を越えて見舞いに行きましたが、どんなことをしても今夜までには帰って来て、顔を出すと言っておりました」
「わかるものか。身持ちのよくないあの男のことだ。また権堂にでも入り浸っているだろう」
「そんなことはございません。親も女房もないせいか、あいつの伯母思いは誰でも知っておりますので」
「まあいい、怠け者には藩としても、それだけの評価しか与えないまでのことだ」
慎吾は、七之助の良い評判をここで引き出そうとは思っていません。
相手を押し伏せるように言い放つと、
「――今夜見えたら、あの男には少し拙者から言い渡しておくことがある。各々方(おのおのがた)、どんどん用談を進めてくれ」
と、例のわがままなやり方で、後の進行を同僚の仕事に押し付けてしまいました。
「承知しました」
相役の四人は、厚ぼったい帳面を何冊も広げ出しました。
――硝石購入帳、煙火道図式、西洋薬品記録、仕上入倉簿、職方日誌、賃銀貸出覚え。
それぞれが一冊ずつ手に取ります。
筆を走らせ、言葉を交わし、そろばんを弾き、秤の目を見る。門外漢にはわからない材料の授受だの、調合の研究だの、三河から帰って来た密偵の報告だの、煙火師と狼火方の専門的な相談などが、およそ一刻(約二時間)あまり、何もかも忘れてガヤガヤと続きました。
――それが済むと、ようやく酒が出る順番になり、話は仕事のことではあってもだいぶくつろいだ空気になり、時折、冗談が混じったり、洒落が飛び出したりします。
笑い声が爆発します。
頃合いを見計らって、お芳が姿を見せます。
いつもは木綿の着物と決まっている彼女も、今夜は夕顔の花のようにうっすらと白粉を襟に塗り、山繭織りを濃い紫に染めたよそ行きの小袖を着て、下婢(しもじょ)に指示を出しながら、一同へお酌をして回りました。
「慎吾様、いかがでございますか」
一巡して、彼の前まで戻ってくると、
「拙者に?」
と、わざと聞き返します。
「ええ」
「この間は、妙な所に立っていたな。何をしていたのか、あんな所で」
「…………」父の兵助の耳を恐れるように「あら、そんなこと存じませぬ」
「知らぬことはなかろう。
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