空屋敷だから落ち着けるのでね」
「そんなことをすれば、村の人が何と言って噂するか分かりません」
「分かってもかまわないだろう。いずれ分かってくることになる、そなたと拙者の仲なのだから」
肩に手をのせて、耳に触れるように囁いた慎吾は、お芳が無反発で俯いているのを、征服者のように覗き込んで、
「誓ったぞ。――じゃあ今日は、無理を言わずに引き返すとするからな」
と、お芳をそこに残して、すたすたと元の道へ帰っていった。しかし、少し先の雑木林をぐるりと回ると、畑の地境の土手の陰を歩いて、また元の七の家の横手へ戻ってきた。
お芳の姿は、もう外には見えない。代赭色(たいしゃいろ)の壁土と皮付きの丸太とで屋根を低く建ててあるその家は、住居というよりは仕事小屋であった。黄色い鼬草(いたちぐさ)の花が咲き乱れている垣根を踏み越えると、彼の足元から鶏の親と雛が両方へ分かれて駆け出した。
「……?」
そこへ、慎吾はしゃがみ込んだのである。
八
「仕事にかかったら、このごろは誰が来ても小屋には入れねえんだ」
七之助は後ろ向きになったまま、火薬に混ぜるほおの木の炭を砥石(といし)でおろしていた。
「くさいこと、ここへ入ると」
「当たり前さ。嫌なら帰ってくんな」
「まー」
と睨んだが、座る場所もないので、お芳は立っていた。仕事にかかると夢中になる七之助は、彼女を振り向いても見なかった。そばには、正覚坊(しょうかくぼう)の卵みたいな、三寸玉から五寸玉ぐらいまでの花火の外殻が、まだ雁皮紙(がんぴし)貼りの生乾きの状態でいくつも陰干しになっているし、膠(にかわ)を溶いた摺鉢(すりばち)だの、得体の知れない液体を入れた壺だの、藁灰(わらばい)を入れた桶だの、そのほか秤(はかり)とか、刃物とか、硫黄の塊片とか、とにかく目にあまるほど散らかっている。いつもはそれほど感じなかったが、慎吾の話を聞いてから、彼女の目にはそれらの物が、みんな浅ましい無知の集まりに見える。小屋の隅にはまた、筵(むしろ)を敷いて、穢(けが)れた土が盛り上げてあった。その土には、茶褐色の羽虫だの白い小さな虫だのが、ぞろぞろとうごめいていました。
なんて汚らわしい虫! お芳は眉をひそめました。
「どうするのよ、こんなに家の中に汚い溝の土を運び込んで」
「硝石(しょうせき)を採るのさ」
「土から火薬を?」
「不思議なことなんてないさ。昔のやつらはみんな、そんなものから弾薬を採って戦をしていたんだ」
「でも、硝石なんて、わざわざそんな手間をかけなくても売っているし、仲間の誰かから分けてもらえばいいじゃないの」
「いやだね」
七は頑固に首を振って言いました。
「今回の仕事には、何もかも、一切長崎から入ってくるような種は使わないつもりなんだ。意地だよ!」
「本当に強情っ張りなんだから」
「そうさ。花火師なんてものは、タバコの火種一つ転がり方が悪ければ、骨も肉もどこへ飛んでいくか分からないような危ない稼業だ。寝る間も惜しんで、半年も一年も悩み抜いて作り上げた品物だって、ドカンと一発鳴ったと思ったら、あっという間に消えてしまう仕事をしているんだぜ。意地でもなきゃ、やってられるか!」
戸狩に生まれたお芳には、その気持ちが痛いほどよく分かっていました。
七との仲も、お互いに気兼ねのない言葉を投げ合うほど深くなっていました。恋も生き方も、まるで花火のように刹那(せつな)で終わるような、そんな男の生き様に、お芳の心は強く惹きつけられていたのです。
少なくとも今日までは、この小屋の異臭や汚さも、胸をむかつかせるほど嫌だと思ったことはありませんでした。
もともと刹那的な恋だったから、当然行き詰まりが来たのかもしれません。しかし、彼女はそうした理由を突き止める気にもなれず、ただぼんやりと、新しい慎吾の姿、その知識や地位に思いを馳せていました。
「ところで、お芳」
「えっ」
ハッとして、「何ですか」と答えました。
「何しに来たんだい、今日は」
「あ、忘れてた。あの……いつか持ってきて貸してあげたお父様の書物を、一度返してもらわないと、私が困ることがあるの」
「どうして」
「松代の佐久間先生に、どうしても貸さなければならないから、お父様が返してもらっておけと言うのでね」
「嘘だろう。ははあ、分かった。お前はあの次席家老のせがれにそそのかされて、書物を取り上げれば、俺が今回の仕事を放り出すだろうなんて相談の上で、取りに来たんだな」
「まあ、なんて疑り深いのかしら」
「そうに違いない。俺は何でも知っているんだ。へん、こう見えても七之助は地獄耳だよ」
「あなたは今日、どうかしているわ。また機嫌のいい時に話すから、書物だけ返してちょうだい」
雑多な薬液の瓶が載っている棚の隅に、見覚えのある父の古書が重ねてあったので、それを取って帰ろうとすると、
「待てッ」
七は突然立ち上がり、「貴様、心変わりしやがったな」と叫びました。
足を上げるが早いか、七はお芳の細い腰を狙って、土間の下へ蹴り落としました。
息を引き取るような鶏の鳴き声がして、けたたましい羽音とともに何かが裏口をかすめたと思った瞬間、そこから、口を真一文字に結んだ慎吾が、恐ろしい形相で屋内に飛び込んできました。
「あっ」
七はお芳の上に重なって倒れました。起き上がろうとすると、またすぐに蹴飛ばされました。四度ほど鞠(まり)のように転がされて、外の太陽の光を浴びた瞬間、七は草ぼこりと一緒に、猛然と大地に両足を踏ん張りました。
「慎吾だな、貴様は」
「慎吾だ」
「なんでこの俺を蹴った」
「なんで、お芳殿を蹴った」
青白く引きつった顔と、怒りに震える拳が、まるで闘鶏のように睨み合い、陰惨な空気が二人の間に流れました。
「蹴ろうが殴ろうが、余計なお世話だ。俺の女を俺が蹴るのに、不思議なんてない」
「俺の女?」
「ああ、はっきり言ってやる。お芳は俺の女だ」
七は隠そうともしませんでした。
眉をピリピリさせていた慎吾は、相手が堂々と叫んだ事実に、ほとんど血の気を失いかけながら言いました。
「そんな馬鹿な。兵助殿が戸狩の七に娘をやったという話など聞いたことがない」
「何が何でも、お芳は俺の女に違いねえんだ」
「馬鹿を申せ。お芳殿は父親の許しもあり、本人も固く拙者と誓い合っているのだ」
「ふうん、それで読めたぞ。何かにつけて貴様が俺の仕事にちょっかいを出してくるのは、そんな恋の恨みからだったのか。哀れなほどケチな野郎だな」
「黙れ! お上の役目に私怨を抱くのか。……おお、いつぞや貴様は、仕事上のことならば果たし合いもいとわんと言ったな」
「言ったが、どうした」
「藩の目付として参っているこの俺の言い条(じょう)に従わぬ以上は、お上に対しても役目の身が立たん。といって、貴様もあそこまで意地を張った手前、まさか今さら後悔したとも言えまい。望み通り果たし合いをして、決着をつけてやるから得物を持て!」
人を罵る快感が、実はそこまでの度胸はない慎吾に、思わず毅然と言い放たせてしまいました。
「よし、待っていろ」
七には、否定する理由などありませんでした。脇差を取るために、彼は体を弾ませて、精悍な足取りで家の中へと飛び込んでいきました。
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