二人の手伝いが休んだので、慎吾も仕事小屋でぼんやりしていたが、一昨日、窓から投げ込まれていったお芳の手紙を出して読み直していた。
彼女の手紙は、その前のものよりも、自分への好意をだんだん明らかにしていると慎吾は思った。
二人の男の知能や身分を比較してみれば、誰がどう考えても、女が自分の方へ歩み寄りたがっているのは当然だと確信した。
「果たし合いをする前に、もうお芳はこっちのものじゃないか」
ほくそ笑むと同時に、なんだか禁断の果実を盗んでいるような心地もする。
それに近頃、他の同僚たちが暗にお芳との恋を諫めるような口ぶりなのが、余計に慎吾を意固地にさせた。
そういうひねくれた態度は彼の性格ゆえ何事にも首を突っ込むことだが、今回のお芳のことに関しては、特にその傾向が強かった。
「会いたくなったなあ」
ぶらりと外へ出た。
珍しく着流しに草履履きで、日陰を拾って歩いた。
教来石兵助の家を訪ねてみると、お芳はいなかった。
湯田中まで行ったからまだ帰るまいという。
兵助老人を相手にしばらく世間離れした話をしていたが、今回の騒動のことは絶対に聞かせぬことにしてあるので、長居もできない。
自分だけ泊まる場所を移したことも、この老人には藩の都合だといい繕っているくらいだった。
――その帰り道である。
わざと遠回りをして、村から離れた旧陣屋跡まで来ると、そこには佐久間象山が移植させたというリンゴ畑がある。
その低い枝の下を潜って、一人の男が向こうへ行くのが見えた。
見たような男だが――
慎吾は先回りをして、旧陣屋の土塀の影に隠れた。
塀の崩れ目は雑草の中に沈んで、また向こうへ続いている。
百年以上もこのままになっているという建物の、真っ黒な棟がその間から見えた。
「おや?」
慎吾は目をみはった。
今その中へ、あたりを見回しながら犬のように這い込んだ男は、七之助に違いない。
七! と思った瞬間、慎吾は頭の芯まで嫉妬の血が熱くのぼるのを感じた。
いつかお芳と約束したことがある。
彼はそれを忘れてはいないが、あの時の騒ぎからつい機会を失っていたのだ。
旧陣屋跡の古家なら人目にもかからずゆっくり会えるから、そこで一度話そうといった、あの約束である。
――お芳は、自分が教えた場所で、いつの間にか七と密会しているんじゃなかろうか。
「それでだ。近頃同僚のやつが、いやに歯切れ悪く諫めてくるのは!」
ムラムラと燃え上がりながら、十歩ばかり駆け出して、土塀の崩れ目から中を覗き込んだ。
ポキリと、自分の手に大きな音が響いた。
つかんでいた木の枝が折れたのである。
その音に気がついたように、今、空屋敷の雨戸の前にたたずんでいた七の顔が、チラとこちらを振り向いた。
慎吾はあわてて後ろへ身を退いた。
七も意外な顔をして、急に体を曲げると、横へそれて、向こう側の土塀を越えて戸狩の方へ帰ってしまった。だが――七が帰ったのは、慎吾には見えなかった。
疑いと嫉妬の心が、重く足にまとわりついて、その場を離れることができないのだ。
「あら、慎吾様じゃありませんか」
不意の声だった。
びっくりして振りかえると、リンゴ畑の細道から女の姿が歩いてくる。
リンゴの木の小枝の間から、お芳のひとみが見えてきた。
彼女は慎吾の髪の毛から足先までを、調べるような目で眺めて言った。
「どこへ行って来たのですか」
「湯田中までだ。……あなたは」
「あなたを探していたのですよ。湯田中には行かなかったのでしょう」
「じゃあ、どこにいたんだ」
「この古家の中にいたのでしょう。七のやつと一緒に」
「まあ! ……」
お芳は呆れたように笑いかけたが、慎吾の顔に浮かぶ嫉妬の色に気づくと、少し胸の前を離れようとした。その瞬間、慎吾の腕が不意に、彼女を抱き倒すようにしてその体を巻いた。
「昼間から七と会っていたんだろう。人の住まない家だ。足跡を見ればわかる。こっちへ来い」
慎吾は気狂いじみた力で、抱きしめたまま、ぐいぐいと空屋敷のほうへ引きずっていった。
お芳の額には汗がにじみ、苦しそうだった。けれど彼女は悲鳴などはあげなかった。
……………………
それから後、ふたりは度々、草いきれのこもった古家の雨戸をはずして、こっそりと黴(かび)の咲いている闇の中を楽しんだ。昼間に会う時もあり、夜に会う時もあった。
十一
気味の悪い慎吾の顔を見たので、七は何もしないで陣屋跡の古家から帰ってきてしまったが、そこへ取りに行った材料はまだしばらく足りる量だったので、二十日ほど行かずにいた。
その間に、彼は自分の魂を詰め込んだに等しい八寸玉の製作を終えた。
八寸玉というと、かなり大きなものだ。玉の外殻は薄い雁皮紙(がんぴし)を一枚一枚貼り重ね、金属のように硬くなるまで丁寧に固めたものである。
その中は、まさに秘中の秘だった。二つに割ってみれば、ちょうど人間の脳を解剖したのと同じように、大脳や小脳、血漿(けっしょう)や細胞といった、微妙な物体の機構が組み込まれているのだった。
誰がこれを「生き物ではない」と言い切れるだろうか。
七は、膝の上に載せてみて、しみじみとそう思った。
この中には、おれの骨も削り込まれている。血も入っているし、癇癪(かんしゃく)の筋も涙も詰まっている。いや、恋さえも入っているんだ。
――古屋敷の床下の土から採ったものや、死んだお千代後家の脂までも。
――無理もないよ。雨気を含んだ暗い晩に、こんなのがあがるとヒュッと泣いて、青い火が降るとぞっとするようなことがある。
やっぱりこいつは化け物の類だろうよ。
七は、自分の作った八寸玉のその重さにさえ、一種の気味悪さを感じるのだった。
彼に言わせれば、花火とは「生きている化け物」だという。
あの怪奇で、蒼白い妖しい炎が消える間際に自分の魂というものを考えると、知らない女とでも一緒に死にたくなってくる。
――かと思うと、胸に火が移るような恋がある時は、ドーンと開いた柳の花火の中へ、懐の金でも何でも、追いかけるように投げ上げたいような狂おしい気持ちにもさせられる。
だが、両国などの賑やかな花火大会のあと、暗い霧が落ちて、街がしいんと冷たくなる時の陰気さはなんとも言えない。
やっぱり花火は生き物であり、妖怪だ。
七は今もそんなことを考えながら、巨大な妖怪の玉を、押入れの奥にしまい込んだ。
「さあ、いつでも来い」
自分の苦心に照らし合わせて、彼は恥じるところがない。
十二
もしこの玉から、彼が苦心して作り上げた「赤光」が放てなかったら、ほかの火の色がどれほど綺麗に出ても、開いた形が上品でも、音が何里四方を揺るがしても、また人工の星が宇宙の星を連れて地に下がって来ても、立会人はこちらに軍配を揚げにくいだろう。
しかし、七には自信があった。
彼はその日から涼しい顔をして、別の仕事にかかった。
そのほうは気楽な雑貨作りで、問屋へ持って行って金に代えるだけの仕事である。
その合間には、三河の煙火陣へ持ち出す一生の大作「尺二玉」をぼつぼつと進めている。
「雑なものを作っていると、硝石(しょうせき)を食ってしまってたまらないな。また少し土を採って置いておこうか」
六月に入ったある晩のことだった。
七は仕事小屋を閉めて出て行った。
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