そうだ、そのときは僕は海をぐんぐん渡ってこっちへ来たけれど、来る途中でだんだん走るのをやめて、それからちょうど五日目にここも通ったよ。
その前の日は、あの水沢の臨時緯度観測所も通った。あそこは僕たちの日本では、東京の次に通りたがる所なんだよ。なぜって、あそこを通ると記録でも何でも、みんな外国の方まで知られるようになることがあるからなんだ。
あそこを通った日はちょうどいい天気だったけれど、そうそう、その時はちょうど日本では梅雨入り(入梅)だったんだ。僕は観測所へ来て、しばらくある建物の屋根の上に休んでいたねえ。休んでいたといっても、本当は少しとろとろ眠ったんだ。
すると俄(にわ)かに下で「大丈夫です、すっかり乾きましたから」という声がするんだろう。
見ると木村博士と気象の方の技手とが、ラケットを下げて出てきていたんだ。
木村博士は痩せていて、目がキョロキョロした人だけれども、僕はまあ好きだねえ。それに、非常にテニスがうまいんだよ。僕はしばらく見ていたけれど、どうしてもその技手さんは博士にかなわないんだ。汗だらけになって、よろよろしている。
あんまり気の毒になったから、僕は屋根の上からじっとボールの動きをにらんで、チャンスをうかがっていたんだ。ちょうど博士がサーブを打ったとき、ふうっと飛び出して行って、ボールを横へそらしてやったよ。
博士はすぐにもう一つのボールを打ち込んだね。
そいつは僕が途中にいて、とんでもない遠くへ蹴飛ばしてやったんだ。
「こんなはずはないぞ」と博士は言ったね。僕はもう博士にこれくらい言わせれば十分だと思って、観測所を離れて、次の日ちょうどここへ来たんだよ。
ところでね、僕はもう少し向こうへ行かなきゃいけないから、今日はこれでお別れしよう。
さようなら。」
又三郎はすっと見えなくなってしまいました。
みんなは、今日は又三郎が勝手なことばかり言って、勝手にどこかへ行ってしまったので、少し変な気分でしたが、一緒に丘を降りて帰りました。
九月六日
一昨日からだんだん曇ってきた空は、とうとうその朝、低い雨雲を垂れ込めて、まるで冬にでも降るようなまっすぐで静かな雨を、やっと穂を出した草や青い木の葉にそそぎました。
みんなは傘をさしたり、小さな蓑(みの)から透き通る冷たいしずくをぽたぽた落としたりして学校に来ました。
雨はたびたび晴れて雲も白く光りましたが、今日は誰もあんまり教室の窓からあの丘の栗の木の方を見ませんでした。
又三郎たちのことも、はじめこそは本当に珍しくて奇妙なものだと思っていましたが、だんだん慣れてくると割合ありふれたことになってしまって、まるで東京からふいに田舎の学校へ転校してきた友だちぐらいにしか思われなくなってきたのです。
お昼すぎ、授業が終わってからはもう雨はすっかり晴れて、小さな蝉などもカンカン鳴きはじめたりしましたけれど、誰も今日はあの栗の木のところへ行こうとも言わず、一郎も耕一も学校の門のところで「あばよ」と言ったきり別れてしまいました。
耕一の家は、学校から川沿いに十五町ほど遡ったところにありました。
耕一の方から来ている子供では一年生の生徒が二人いましたが、それはもう午前中に帰ってしまっていましたし、耕一はかばんと傘を持って、ひとり道を川上の方へ帰っていきました。
道は岩の崖になったところの中ごろを通るので、ずいぶんたびたび山のくぼみや谷に沿って回らなければなりませんでした。
ところどころには湧き水もあり、また道の砂だってまっ白で平らでしたから、耕一は今日も下駄を脱いで、傘と一緒に持って歩いていきました。
曲がり角を二つ回ってもう学校も見えなくなり、前にも後ろにも人は一人もおらず、谷の水だけ崖の下で少し濁ってゴーゴー鳴るばかりで、たいへん寂しくなったので、耕一は口笛を吹きながら少し早足に歩きました。
ところが道のひとところに、崖から体を突き出すようにした楢(なら)や樺(かば)の木が、道に覆いかぶさっているところがありました。
耕一が何気なくその下を通りましたら、俄(にわ)かに木がグラッと揺れて、冷たいしずくが一ぺんにザッと落ちてきました。
耕一は肩から背中から、水の中に入ったようになりました。それほど激しく落ちてきたのです。
耕一はその梢(こずえ)をちょっと見上げて、少し顔を赤くして笑いながら行き過ぎました。
ところが次の木のトンネルを通るとき、またザッとそのしずくが落ちてきたのです。
今度はもうすっかり体まで水が染みるくらいに濡れました。耕一はギョッとしましたけれど、やっぱり口笛を吹いて歩いていきました。
ところが間もなくまた木が覆いかぶさったところを通るようになりました。
それは今までとは違って、たいへん長かったのです。
耕一は通る前に一ぺんその青い枝を見上げました。しずくはいっぱい溜まっていて、全く今にも落ちそうには見えましたし、おまけに「二度あることは三度ある」とも言うので、少し立ち止まって考えてみました。けれども、まさか三度が三度とも、ちょうど下を通るときにそれが落ちてくるということはないだろうと思って、少しビクビクしながらその下を急いで通っていきました。
そしたらやっぱり、今度もザーッとしずくが落ちてきたのです。
耕一はもう少しで口が曲がって泣き出しそうになりながら、上を見上げました。
けれどもどうしようもありませんでしたから、冷たさに一ぺんブルッとしつつ、もう少し歩きました。
すると、またザーッと来たのです。
「誰だ! 誰だ!」耕一はもうきっと誰かのいたずらだと思って、しばらく上をにらんでいましたが、しんとして何の返事もなく、ただ下の方で川がゴーゴー鳴るばかりでした。
そこで耕一は、今度は傘をさして行こうと思って下駄を下に下ろし、傘を開きました。
そしたら俄かにドォーッと風がやってきて、傘はパッと開き、あぶなく吹き飛ばされそうになりました。耕一はよろよろしながらしっかり柄をつかまえていましたが、とうとう傘はガリガリと風に壊されて、開いたキノコのような形になってしまいました。
耕一はとうとう泣き出してしまいました。すると、ちょうどその時、向こうで「あははは!」と笑う声が聞こえました。
びっくりしてそちらを見ると、それは――それは風の又三郎でした。
ガラスのマントはしずくでいっぱいで、髪の毛も濡れて束になり、赤い顔からは湯気さえ立てながら、ふいごのように息を弾ませて笑っています。
耕一は、あたりがキィーンと鳴るほど頭に血がのぼりました。
「なんだ! 人の傘を壊しやがって!」
又三郎はますますひどく笑って、まるでそこら中を転がり回るようにしています。
耕一はもう我慢できなくなって、持っていた傘をいきなり又三郎に投げつけ、それから泣きながら組み付きました。
すると又三郎はすばやくガラスのマントを広げて、空へ飛び上がってしまいました。
もうどこへ行ったのか、姿は見えません。
耕一はまだ泣きながら空を見上げていました。しばらく悔しさでしくしく泣いていましたが、ようやくあきらめて、壊れた傘も持たずに家へ帰りました。
そして縁側から家に入ろうとしてふと見ると、さっきの傘が広げて干してあるではありませんか。
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