須利耶さまは気づかないふりをして、写経を続けておいでです。
「まあ、お前はどうして今ごろ帰ってきたの?」
「私、もうお母さんと一緒に働こうと思うんだ。勉強している暇なんてないんだよ」
お母さまは、須利耶さまのほうに気兼ねしながらそう言いました。「お前はまた、そんな大人みたいなことを言って。仕方がないではありませんか。
早く帰って勉強をして、立派になって、みんなのために尽くさなければいけません」
「だってお母さん。
お母さんの手は、どうしてそんなにガサガサしているの?
それなのに、どうして僕の手はこんなにきれいなんだろう」
「そんなこと、あなたが気にしなくていいのですよ。
誰だって年をとれば手は荒れるものです。
そんなことより、早く帰って勉強をなさい。
あなたが立派になることだけが、私にとっての楽しみなのですから。
お父さんが聞いたら叱られますよ。
ね?
さあ、お行きなさい」
とお母さまは言いました。
童子はしょんぼりと庭から出ましたが、それでもやはり立ち止まってしまいました。
お母さまはまた外へ出て、もっと向こうまで送り届けました。
そこは沼地でした。
お母さまは戻ろうとして「さあ、早くお行き」と促しましたが、童子はやはり立ち止まったまま、家の方をぼんやりと見ています。
お母さまは仕方なくまた振り返って、葦(あし)を一本抜いて小さな笛を作り、童子に持たせました。
童子は、やっと歩き出しました。
遠く冷たい縞模様のような雲の下で、葦がそよぎ、やがて童子の姿は小さく小さくなっていきました。
そのとき、突然空からバサバサと羽音がして、雁(かり)の群れが一列になって通り過ぎました。須利耶さまは窓からそれを見て、思わずドキリとしました。
そうして、冬がやってきました。
厳しい冬が過ぎると、まずは楊の木の芽が静かに光り、砂漠には砂糖水のような陽炎(かげろう)がゆらゆらと漂います。
杏やすももの白い花が咲き、続いて木立も草地もまっ青になり、今や玉髄(ぎょくずい)のように美しい雲の峯が、空の四方を囲む季節となりました。
ちょうどそのころ、沙車(しゃしゃ)の町の外れで、砂の中から古い「沙車大寺」のあとが掘り出されたという噂が広まりました。
壁が一つだけ当時のまま見つかり、そこには三人の天童子が描かれていて、特にその中の一人はまるで生きているようだ、と人々は評判し合いました。
あるよく晴れた日、須利耶さまは都へ出て、童子の師匠に挨拶をして贈り物(粗布三巻)を渡し、半日のあいだ童子を連れて歩きたいと申し出ました。
二人は混雑した通りを歩いて行きました。
須利耶さまは歩きながら、何気なくこう言いました。
「どうだ、今日の空の青いこと。お前たちの年は、ちょうど今あの空へ飛び立とうとして、羽をバタバタさせているようなものだよ」
童子はひどく沈んだ様子で答えました。
「お父さん。
僕は、お父さんと離れてどこへも行きたくありません」
須利耶さまは笑いました。
「もちろんだ。
この人の大きな旅においては、自分だけ一人で遠い光の空へ飛び去るなんてことは、してはいけないことなんだ」
「いいえ、お父さん。
僕はどこへも行きたくありません。
……誰も、どこへも行かなくていいのでしょうか」
と、童子は不思議なことを尋ねました。
「誰もどこへも行かなくていいとは、どういうことだ?」
「誰もみんな、一人で離れてどこかへ行かなくていいのでしょうか」
「うん。
それは、行かなくていいだろうね」
と、須利耶さまは何の気なしに、ぼんやりとそう答えました。
やがて二人は町の広場を通り抜け、郊外へとやってきました。
そこには砂がずっと広がっていました。
砂地が一箇所深く掘り下げられ、たくさんの人がその中に立っていました。
二人も下りて行くと、そこには古い壁がありました。
色はあせていましたが、たしかに三人の天童子が描かれていました。
須利耶さまは、思わずドキリとしました。
何か大きくて重いものが、遠い空からバッタリと覆いかぶさってきたような気がしたのです。
それでも須利耶さまは、何気ないふりをして言いました。
「なるほど、見事なものだ。あまりによく出来ていて、なんだか恐ろしいくらいだな。この天童は、どこかお前に似ているよ」
須利耶さまが童子を振り返ると、童子はなぜか笑ったまま、ふらりと倒れかかってきました。
須利耶さまは驚いて、急いで抱き留めました。
童子はお父さんの腕の中で、夢を見るように呟きました。
「おじいさんが、お迎えをよこしたのです」
須利耶さまは叫びました。
「お前、どうしたんだ! どこへも行ってはいけないよ!」
童子はかすかな声で言いました。
「お父さん。お許しください。僕はあなたの子です。この壁は、前にお父さんが描いたものなのです。そのとき僕は王の……だったのですが、この絵が完成したあと、王さまは殺され、私たちは一緒に修行の道へ入りました。ですが、敵の王が攻めてきて寺を焼くとき、二日ほど普通の服を着て隠れているうちに、僕には恋人ができて……このまま修行の道へ戻るのをやめようかと思ってしまったのです」
そのとき、人々が集まってきて、口々に叫びました。
「雁の童子だ! 雁の童子だ!」男の子はもう一度、小さく唇を動かして何かをつぶやいたようでしたが、須利耶(スリヤ)さまには、もうその声は聞こえなかったということです。
私が知っている物語は、ただこれだけです。
老人は、もう出発しなければならないようでした。
私は本当に名残惜しく思い、まっすぐに立って両手を合わせ、こう言いました。
「尊いお話を聞かせてくださり、ありがとうございました。
私たちは、砂漠の端にあるこの泉でたまたま顔を合わせ、ほんの短い時間を一緒に過ごしただけに過ぎません。ですが、これもきっと、ただの偶然ではないのだと感じています。
通りすがりの二人の旅人に見えても、実はお互いが本当は何者なのか、よく分かっていないのですから。
いつか私たちは二人とも、仏さまが示された光の道を進み、最高の悟りへとたどり着くことでしょう。
それでは、お別れです。さようなら」
老人は、黙って頭を下げて挨拶を返しました。
何か言い残したいことがあるようでしたが、結局何も言わずにくるりと後ろを向き、私がこれまで歩いてきた方の荒れ地へと、とぼとぼと歩き出しました。
私もまた、その反対側にある、静まり返った石の平原へ向かって、両手を合わせたまま歩き出したのです。
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