一
大田蜀山人が書いた『壬戌紀行(じんじゅつきこう)』という旅日記には、木曽街道の「奈良井の宿」の様子がこう記されています。
「奈良井の宿場を見渡せば、梅、桜、彼岸桜、すももの花が枝を交え合って咲き乱れ、まるで春の真っ只中にいるような気分にさせられる。宿場町には小道具を売る店が多い。膳、お椀、弁当箱、杯、曲げ物などは、みなこの辺りの職人の手仕事だ。宿場町も大変賑わっている」
この文章以上に細かな説明をしなくても、江戸時代の木曽路がどんな様子だったか、皆さんも大体想像できるでしょう。蜀山人がこの地を通り過ぎたのは享和二年四月一日のことですが、この物語はその翌年、三月二十七日に始まるということを覚えておいてください。
この年は信州の雪解けも例年より早く、旧暦三月末の木曽路はすっかり春の陽気に包まれていました。そんな春風に吹かれながら、江戸へ向かう三人の旅人が、鳥居峠を下りて「三軒屋(さんげんや)」という休憩所で一休みしていました。彼らは江戸の四谷忍町で質屋を営む近江屋七兵衛(おうみやしちべえ)と、その甥の梅次郎、そして手代(店員)の義助です。
「おまえ様がたは、お江戸の方でございますな」
休憩所の茶屋の婆さんが、お茶を差し出しながら話しかけました。
「ええ、江戸から参りました」と七兵衛が答えます。「若い頃から一度はお伊勢参りをしたいと願っていましたが、その願いが叶って、この春ようやくお参りを済ませてきたところです」
「それはそれは、よいことをなさいましたねぇ」と婆さんは頷きました。「お参りのついでに、どこかへも足を延ばされたのですか?」
「お察しの通りです。帰りに奈良から京、大阪と見物してきました。こんな長い旅はめったに出来ませんからね。東海道を下り、帰りは中仙道を通って、こうして無事ここまで戻ってこられたのです」
「それは、お宿の皆さんへのお土産話もたくさん出来たでしょう」
「風邪も引かず、食べ物でお腹を壊すこともなく、名所も見物して名物も味わい、こうして帰ってこられたのは、ひとえにお伊勢さまのおかげでございます」
長年の夢を叶え、楽しい旅を続けてきた七兵衛は、いかにも晴れやかな顔で温かいお茶を飲みながら、周りの春景色を眺めていました。すると、さっきから婆さんと客の話が途切れるのを待っていたかのように、店先の山桜の大木の陰から、一人の男が姿を現しました。
男は六十歳前後で、ひと目で山国育ちとわかる頑丈そうな大男でした。小脇には毛皮を二、三枚抱えています。
「もし、お江戸のお客さま。熊の皮を買ってくださらんかな」
男は見た目によらず優しい声で言いました。木曽路では熊の皮や熊の胆(くまのい)を売るのが当時の習わしで、この一行もここまで来る間に何度もこの毛皮売りに付きまとわれていました。手代の義助は「またか」という顔をして、無愛想に断りました。
「いや、熊の皮なんぞはいらない、いらない。俺たちは江戸に帰れば、虎の皮をふんどしにしているくらいなんだから」
「ははは、鬼じゃあるまいし……」男は笑いました。「そんな冗談を言わないで、一枚お土産に買ってくださいよ。だんだん暖かくなると毛皮も売れなくなります。今のうちに安くしておきますから」
「安くても高くても断る」と、梅次郎も口を挟みました。「私らは町人だ。熊の皮の敷物になんて座れないだろう。そんな物は武士を見かけて売りなさい」
揃いも揃って冷たく断られましたが、そんなことには慣れっこの様子の男は、相変わらずニヤニヤと笑っていました。
「それじゃあ仕方がない。熊の皮がご不要ならば、熊の胆を買ってください。これは薬ですから、どなたのお役にも立ちます。道中の邪魔にもなりません。どうぞ買ってください」
「道中でうっかり熊の胆なんか買うと、偽物をつかまされるっていうからね。そんな物もご免だ」と義助がまた断ります。
「偽物を売るような私じゃありませんよ。そこはここの婆さんも証人だ。まあ、見てください」
男が後ろを振り返ると、桜の陰からもう一人、人が出てきました。十七、八歳くらいの顔色の白い娘で、手には小さな箱のようなものを抱えています。身なりは粗末でしたが、顔立ちや姿があまりにこの毛皮売りの老人とは不釣り合いだったため、三人の視線は釘付けになりました。
「江戸のお客さまを相手にするには、俺よりもお前のほうがいいようだ」男は笑って言いました。「さあ、お前の方からお願いしてくれ」
娘は恥ずかしそうに微笑みながら進み出ました。
「今も申しました通り、偽物などを売るような私たちではございません。そんなことをしたら、福島のお代官所に縛られてしまいます。安心してお求めください」
梅次郎も義助も若い男です。目の前に突然現れた色白の若い女性を前にしては、先ほどまでの荒っぽい態度を続けるわけにもいきません。
「お嬢さんがそう言うなら偽物でもないだろうが、熊の胆はもう前の宿で買わされたところなんだ」と義助が言いました。
これは、どの客からも聞かされる、決まり文句の嘘でした。この道中で商売をしている以上、それで素直に引き下がるはずがないのは分かりきっていた。
娘は食い下がって、どうか買ってくださいと頼んだ。
梅次郎と義助は、買うような、買わないような、要領を得ないことを言って、娘をからかっていた。
梅次郎は今年二十一歳で、本来はおとなしく、真面目な男だったが、長い道中を過ごすうちに宿屋の女中や茶屋の女と親しくなり、最近では若い女に冗談の一つも言ってからかうようになっていたのである。
義助は二つ年上の二十三歳だった。
七兵衛はさっきから黙って聞いていたが、その顔色が次第に緊張してきて、微笑を浮かべていた口元が固く結ばれた。
彼は手に持った煙管の火が消えているのにも気づかず、熊の胆(くまのい)を押し売りする娘の白い顔をじっと見つめていたが、やがて突然に声をかけた。
「もし、おじいさん。その子はお前の娘か、それとも孫か」
「いえ……」と、毛皮売りの男は曖昧に答えた。
「お前の身寄りではないのか」と、七兵衛はさらに問い詰めた。
「はい」
七兵衛は無言で娘を招くと、娘は少し戸惑いながらも、七兵衛が腰を下ろしている床几(しょうぎ)の前へ進み寄った。
七兵衛はやはり無言で、娘の右の耳の下にある一つの黒子(ほくろ)を見つめながら、探るようにまた訊いた。
「お前の左の二の腕に、小さな青い痣(あざ)はないか」
娘は予想外の問いを受けたように、相手の顔を見上げた。
「あるのか」と、七兵衛は少し急かすように言った。
「はい」と、娘は小声で答えた。
「店の先では話ができない」と、七兵衛は立ち上がった。「ちょいと奥へ来てくれ。おじいさん、お前も来てくれ」
その様子がただならぬ雰囲気を醸し出していたので、男も娘も一瞬ためらったが、七兵衛に促されて不安そうに続いていった。
娘はよろめいて、店の柱に突き当たった。
「旦那はどうしたのだろうな」と、義助も不安そうに三人の後ろ姿を眺めていた。
「さあ……」
梅次郎も不思議そうに考えていたが、急に思い当たったことがあるのか、何事か耳打ちをすると、義助も驚いたように目を見開いた。
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