初級翻訳・お伽草紙 第12話

お伽草紙

「ずっと向こう、乙姫さまの歩いていく方角の、ずっと向こうに何か見えませんか?」と亀に言われて、浦島は眉をひそめてその方向をじっと見つめました。

「ああ、そう言われてみるとなにかあるようだね」

ほとんど一里(約4キロ)先と思えるほどの遠方、深い淵の底を覗いた時のように、何やらぼんやりと霞んでゆらゆらしているあたりに、小さな純白の水中花のようなものが見えました。

「あれか。小さいものだね」

「乙姫さまがひとりで休まれるのに、大きな御殿なんて必要ないじゃないですか」

「そう言われれば、まあそうだが」と浦島はさらにサクランボのお酒を調合して飲み、「あのお方は、何かね、いつもあんなに無口なのかね」

「ええ、そうです。言葉というものは、生きていることの不安から芽生えてきたものじゃないですかね」腐った土から赤い毒きのこが生えてくるように、生きることの不安が言葉をドロドロと発酵させているんじゃないでしょうか。
喜びを伝える言葉だってありますが、それにもなお、いやらしい工夫が凝らされているではありませんか。
人間は、喜びの中にさえ、不安を感じているのでしょうかね。
人間の言葉はどれもこれも、みんな計算ずくの工夫です。気取ったものばかりです。
不安なんてない場所では、何もそんな、いやらしい工夫など必要ないはずですよ。
私は乙姫さまが、言葉をしゃべったのを聞いたことがありません。
かといって、黙っている人によくあるような、裏で何を考えているのか分からない、チクチクと人を観察して陰口を叩くようなことなんて、乙姫さまは決してなさいません。
何も考えていらっしゃらないんです。
ただああして、かすかに笑って琴をかき鳴らしたり、この広い広間をふらふらと歩き回ったり、サクランボの花びらを口に含んだりして遊んでいらっしゃる。
本当に、のんびりしたものですよ」

「そうかね。あのお方も、やっぱりこのサクランボのお酒を飲むのかね。まったく、これは最高だよ。これさえあれば、何もいらない。もっといただいてもいいかな」

「ええ、どうぞ。ここに来て遠慮なんかするのは馬鹿げています。あなたは無限に許されているのですから。ついでに何か食べてみたらどうです。目に見える岩はすべて珍味ですよ。油っこいのがいいですか? それとも、軽く少し酸っぱいようなのがいいですか? どんな味のものでもありますよ」

「ああ、琴の音が聞こえる。寝ころんで聞いていてもいいんだろうね」
無限に許されているという考え方は、実は生まれて初めてのことでした。浦島は、風流な身だしなみも何も忘れて、仰向けに長く寝そべり、「ああ、あ、酔っぱらって寝ころぶのは、いい気持ちだ。ついでに何か、食べてみようかな。キジの焼肉みたいな味の藻があるかな」

「ありますよ」

「それと、それから、桑の実のような味の藻は?」

「あるでしょう。しかしあなたも、妙に野蛮なものを食べるのですね」

「本性ってやつさ。私は田舎者だよ」と言葉づかいまでも、どこか変わってきて、「これが風流の極みってやつさ」

目を上げて見ると、はるか上の方に、魚たちの天蓋(天井のような群れ)がのどかに浮かび漂っているのが、青く霞んで見えます。
するとたちまち、その天蓋から一群の魚がむらむらと分かれて、それぞれが銀色の鱗を光らせて、満天に雪が降り乱れるように舞い遊びました。
竜宮には夜も昼もありません。いつも五月の朝のように爽やかで、木陰のような緑の光線でいっぱいで、浦島は幾日をここで過ごしたのか、見当もつかなくなりました。
その間、浦島は、それこそ無限に許されていました。
浦島は、乙姫さまのお部屋にも入りました。乙姫さまは何の嫌悪感も示しませんでした。ただ、かすかに笑っているだけです。
そうして、浦島は、やがて飽きてしまいました。許されることに飽きてしまったのかもしれません。
陸上の貧しい生活が恋しくなりました。お互いに他人の評価を気にして、泣いたり怒ったり、ケチにこそこそと暮らしている陸上の人たちが、たまらなく愛おしく、そして、なんだか美しいもののようにさえ思えてきたのです。
浦島は乙姫さまに向かって、「さようなら」と言いました。
この突然の暇乞いもまた、無言の微笑みによって許されました。
つまり、何でも許されたのです。始めから終わりまで、ずっと許されていました。
乙姫さまは、竜宮の階段まで見送りに出て、黙って小さい貝殻を差し出します。
まばゆい五色の光を放っている、きっちりと合わさった二枚貝です。
これがいわゆる、竜宮のお土産の玉手箱でした。
行きはよいよい、帰りはこわい。
また亀の背に乗って、浦島はぼんやりと竜宮から離れていきました。
へんな憂鬱(ゆううつ)が浦島の胸の中に湧き出てきます。
ああ、お礼を言うのを忘れた。あんなにいいところは、他にないのだ。
ああ、いつまでも、あそこにいたほうがよかった。
しかし、私は陸上の人間だ。どんなに安楽な暮らしをしていても、自分の家が、自分の村が、自分の頭の片隅にこびりついて離れない。
美酒に酔って眠っても、夢は故郷の夢なんだからなあ。げっそりするよ。
私には、あんなにいいところで遊ぶ資格はなかったんだ。

「わあ、どうも、いかん。淋しいわい」と浦島はやけくそに似た大きな声で叫びました。
「なんのわけだか分からないが、どうも、いかん。おい、亀。何とか、また景気のいい悪口でも言ってくれ。お前は、さっきから、何も一言も、ものを言わないじゃないか」

亀は先刻から、ただ黙々とヒレを動かしているばかりです。

「怒っているのかね。私が竜宮から食い逃げ同然で帰るのを、お前は、怒っているのかね」

「ひがんじゃいけませんよ。陸上の人はこれだからいやなんです。帰りたくなったら帰る。どうでも、あなたの気の向いたように、とはじめから何度も言っているじゃないですか」

「でも、なんだかお前、元気がないじゃないか」

「そう言うあなたこそ、妙にしょんぼりしているじゃないですか」「やれやれ、お迎えはいいけれど、このお見送りっていうやつは、どうも苦手だね」

「行きはよいよい、ってやつかな」

「洒落(しゃれ)にもなりませんよ。とにかく、このお見送りっていうのは、ちっとも気分が盛り上がらない。溜息ばかり出て、何を言っても白々しく聞こえるし、いっそもう、この辺りでさっさと別れてしまったほうが楽なくらいだ」

「やっぱり、お前も寂しいのかい」

浦島はしんみりとして、「今回は本当に、お前にずいぶんとお世話になったね。お礼を言うよ」と言いました。

亀は返事をせず、そんなことは当たり前だと言わんばかりに少し甲羅を揺らして、そのまま黙々と、せっせと泳ぎ続けます。

「あのお方は、やっぱりあそこで、たったひとりで遊んでいるんだろうね」

浦島は、どうしようもなくやるせない溜息をついて、「私にこんな綺麗な貝をくれたけれど、これはまさか、食べるものじゃないだろうな」と尋ねました。

亀はくすくすと笑い出し、「少し竜宮にいたうちに、あなたも、ずいぶんと食い意地が張ってきましたね。それは、食べるものではないでしょう。私にもよく分かりませんが、その貝の中に何か入っているんじゃないですか?」と言いました。

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