初級翻訳・夢十夜 第5話

夏目 漱石

「西へ沈む日の行きつく先は、東なのかい? それは本当のことかい? 東から昇る日の故郷は、西にあるのかい? それも本当のことかい? 私たちは波の上。流れにまかせて、流れていこう」
船の先へ行ってみると、水夫たちが大勢集まって、太い帆綱を一生懸命に手繰り寄せていました。
私はとても心細くなりました。いつ陸に上がれるのかも分からず、どこへ向かっているのかも知りません。ただ、黒い煙を吐き出しながら波を切り裂いて進んでいることだけは確かでした。
その波は、とてつもなく広いものでした。果てしなく青く見え、時には紫色に変わることもあります。ただ、船が動く周りだけは、いつでも真っ白な泡を吹いていました。
私はどうしようもなく不安でした。こんな船に乗っているくらいなら、いっそ身を投げて死んでしまおうかと思いました。
乗客はたくさんいましたが、そのほとんどは外国人のようでした。しかし、みんなそれぞれ違った顔をしています。
空が曇って船が揺れたとき、一人の女が手すりに寄りかかって、しきりに泣いていました。目を拭くハンカチが白く光って見えました。彼女は更紗(さらさ)模様の洋服を着ていました。この女を見たとき、悲しんでいるのは自分だけではないのだと気づかされました。
ある晩、甲板に出て一人で星を眺めていたら、一人の外国人がやって来て「天文学を知っているか」と尋ねてきました。私はもう人生がつまらなくて死にたいと思っているくらいですから、天文学なんて知る必要はありません。黙っていました。
するとその外国人は、おうし座の頂点にあるすばる(七つの星)の話を聞かせてくれました。そして、星も海もすべて神様が作ったものなのだと言いました。最後に「あなたは神を信じますか」と尋ねてきましたが、私は空を見上げたまま黙り込んでいました。
あるときサロンに入ると、派手な衣装を着た若い女が背中を向けてピアノを弾いていました。そのそばには背の高い立派な男が立って、歌を歌っています。その口がとても大きく見えました。けれども二人は、お互い以外のことには全く関心がない様子で、自分たちが船に乗っていることさえ忘れているようでした。
私はますます人生がつまらなくなり、ついに死ぬことを決心しました。
そしてある晩、周りに誰もいないときを見計らって、思い切って海の中へ飛び込みました。
ところが――自分の足が甲板を離れて、船と縁が切れたその瞬間、急に命が惜しくなりました。「やめておけばよかった」と心の底から思いました。けれども、もう遅すぎます。嫌でも応でも海の中へ入らなければなりません。
ただ、船の造りが大変高かったのか、体は船を離れたものの、足がなかなか水面に着きません。つかまるものがないので、少しずつ水面へと近づいていきます。いくら足を縮めても、刻一刻と海が迫ってきます。
水の色は真っ黒でした。そのうち船は、例のごとく黒い煙を吐きながら通り過ぎていきました。
私は、どこへ行くのか分からない船であっても、やっぱり乗っている方がよかったのだと初めて悟りました。しかし、その気づきを活かすこともできず、無限の後悔と恐怖を抱えたまま、黒い波の方へ静かに落ちていきました。

第八夜

床屋の敷居をまたぐと、白い着物を着た三、四人の店員たちが、一斉に「いらっしゃいませ」と言いました。
部屋の真ん中に立って見回すと、四角い部屋です。窓が二面にあり、残りの二面には鏡が掛かっていました。鏡の数を数えると、六つありました。
私はそのうちの一つの前に座り込みました。すると「ぶくり」と音がしました。とても座り心地の良い椅子です。
鏡には自分の顔が立派に映りました。顔の後ろには窓が見え、その先には帳場の格子が斜めに見えます。格子の中には誰もいません。
窓の外を通る往来の人の、腰から上がよく見えます。庄太郎が女を連れて通り過ぎました。庄太郎はいつの間にかパナマ帽を買って被っています。女もいつの間に用意したのか、よく分かりませんが、二人とも得意げな様子でした。よく顔を見ようと思っているうちに、通り過ぎてしまいました。
豆腐屋がラッパを吹きながら通りました。ラッパを口に当てているので、頬がまるで蜂に刺されたようにパンパンに膨らんでいます。膨らんだまま通り過ぎてしまったので、気になって仕方がありません。あのおじさんは一生、蜂に刺されているままのように思えてなりません。
芸者が出てきました。まだお化粧をしていません。髪型の根元が緩んでいて、なんだか締まりがありません。顔も寝ぼけていて、肌の色つやが気の毒なほど悪いです。彼女は私に会釈をして「どうも、何とかです」と言いましたが、相手の男性はどうしても鏡の中には映りませんでした。すると、白い着物を着た大柄な男が僕の後ろにやってきて、ハサミとクシを手に、僕の頭をじっと眺め出しました。
僕は少しだけ生えているヒゲをいじりながら、「どうでしょう、これでも一人前の男になれますかね?」と尋ねました。
白い男は何も言わずに、手に持っていた琥珀色のクシで、軽く僕の頭を叩きました。
「いや、頭のことはともかく、自分という人間はどうでしょう、立派になれるでしょうか」と、僕はもう一度聞いてみました。
白い男はやはり何も答えず、チャキチャキとハサミを鳴らし始めました。
鏡に映る自分の姿を一つも見逃すまいと目を見開いていましたが、ハサミが鳴るたびに黒い髪の毛が飛んでくるので、怖くなって、とうとう目を閉じてしまいました。
すると白い男が言いました。
「旦那、表の金魚売りは見ましたか?」
僕は見ていないと答えました。
白い男はそれきりで、しきりにハサミを鳴らしています。
そのとき、突然大きな声で「危険だ!」という叫び声が聞こえました。
はっとして目を開けると、白い男の袖の向こうに自転車の車輪が見えました。人力車の取っ手も見えました。
そう思った瞬間、白い男が両手で僕の頭を押さえつけ、ぐいっと横に向けました。
自転車も人力車も、すっかり見えなくなってしまいました。
ハサミの音がチャキチャキと響きます。
やがて白い男は僕の横に回り込み、耳の周りを刈り始めました。
髪の毛が顔の方へ飛んでこなくなったので、安心して目を開けました。
するとすぐ近くで、「あわもちや〜、もちや〜、もちや〜」という声が聞こえます。
小さな杵(きね)をわざと臼(うす)に打ちつけて、リズムを取りながら餅をついています。
あわ餅屋なんて子供の頃に見たきりだったので、どんな様子か見てみたいと思いました。
けれども、あわ餅屋の姿は鏡の中には決して映りません。
ただ、餅をつく音だけが聞こえてきます。
僕はありったけの視力を集中させて、鏡の隅を覗き込むように見ました。
すると、帳場の格子のなかに、いつの間にか一人の女が座っています。
肌は浅黒く、眉毛が濃い大柄な女です。銀杏返しという髪型を結い、黒いしゅすの襟がついた着物を着て、立膝のまま、お札を数えています。
お札は十円札のようです。
女は長いまつげを伏せ、薄い唇をきゅっと結んで一生懸命にお札を数えていますが、その手つきがとても速いのです。
しかも、お札の数はいくら数えても終わりそうにありません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました