初級翻訳・永日小品 第5話

夏目 漱石

風もない濁った空の途中から、静かに、急ぐこともなく、冷たく冷徹に、雪が落ちてきます。
「おい、去年、子供が病気でストーブを焚いたとき、炭代はいくらかかったかな」
「あのときは月末に二十八円払いました」
僕は妻の答えを聞いて、部屋にストーブを置くことをあきらめました。
そのストーブは、裏の物置に転がっているのです。
「おい、もう少し子供を静かにさせられないかな」
妻はやむを得ないという顔をしました。
そして、こう言いました。
「お政さんがお腹が痛いと言って、かなり苦しそうなので、林さんでも呼んで診てもらおうかしら」
お政さんが二、三日寝込んでいることは知っていましたが、それほど悪いとは思っていませんでした。
早く医者を呼んだほうがいいだろうと、僕から促すように言うと、妻は「そうしましょう」と答えて、時計を持ったまま出て行きました。
襖を閉めるとき、この部屋のなんと寒いことか。
まだ手がかじかんでいて、仕事をする気になれません。
実を言うと、仕事は山ほどあります。
自分の原稿を一回分書かなければなりません。
ある未知の青年から頼まれた短編小説を二、三編読んでおく義務もあります。
ある雑誌へ、ある人の作品を手紙を添えて紹介するという約束もあります。
この二、三ヶ月の間に読むはずで読めなかった本が、机の横に高く積み上がっています。
ここ一週間ほどは、仕事をしようと思って机に向かうと人がやってくるのです。
そして、皆が何らかの相談を持ち込んできます。
その上、胃も痛みます。
その点だけで言えば、今日は幸いなことに誰も来ません。
けれど、どう考えても寒くて億劫で、火鉢から手を離すことができません。
すると玄関に、車を横付けにする音がしました。
下女が来て「長沢さんがいらっしゃいました」と言います。
僕は火鉢のそばで縮こまったまま、上目遣いに、入ってくる長沢を見上げながら、「寒くて動けないよ」と伝えました。
長沢は懐から手紙を取り出し、「この十五日は旧暦の正月だから、ぜひ都合をつけてくれ」といった内容の手紙を読みました。
相変わらず金銭の相談です。
長沢は十二時過ぎに帰っていきました。
それでも、まだ寒くて仕方ありません。
いっそ風呂にでも行って元気をつけようと思い、手ぬぐいを提げて玄関へ出ようとすると、今度は「ごめんください」と言ってやってきた吉田に出くわしました。
座敷へ上げていろいろと身の上話を聞いていると、吉田はほろほろと涙を流して泣き出しました。
その間にも、奥の方では医者が来て何だかバタバタと騒がしい様子です。
吉田がようやく帰ると、また子供が泣き出しました。
とうとう我慢できず、風呂へ行きました。
風呂から上がると、ようやく体が温まりました。
晴れやかな気分で家へ戻り、書斎に入ると、ランプが灯り、カーテンが下りています。
火鉢には新しい炭が活けてあります。
僕は座布団の上にどっかりと座りました。
すると妻が奥から「寒いでしょう」と言って、蕎麦湯を持ってきてくれました。
お政さんの容体を聞くと、「ことによると盲腸炎になるかもしれないそうですよ」と言います。
僕は蕎麦湯を手に受けながら、「もし悪いようだったら、病院に入れてやるのがいい」と答えました。
妻は「それがいいでしょうね」と言って茶の間へ戻っていきました。
妻が出て行ったあと、急に静かになりました。
まったくの雪の夜です。
泣いていた子供も、幸いに寝たようです。
熱い蕎麦湯をすすりながら、明るいランプの下で、継ぎ足した炭がパチパチと鳴る音に耳を傾けていると、赤い火の気配が、囲われた灰の中でほんのりと揺れています。
時々、薄青い炎が炭の隙間から立ち上がります。
僕はその火の色に、今日一日で初めての温もりを感じました。
そして、しだいに白くなっていく灰の表面を五分ほど見守っていました。

下宿
初めて下宿をしたのは、北の高い台の上でした。
赤レンガの小ぢんまりとした二階建ての建物が気に入ったので、割合に高い週二ポンドの宿料を払って、裏の部屋を一間借り受けました。
そのとき、表の部屋を占領しているK氏は「目下、スコットランドを巡遊中で、しばらくは帰らない」と主婦が説明しました。
その主婦というのは、目がくぼみ、鼻がしゃくれて、顎と頬が尖った、鋭い顔つきの女で、一見しただけでは年齢も分からず、女性という枠を超越したような存在でした。
癇癪(かんしゃく)、ひがみ、意地、負けん気、疑い深さ……あらゆる心の弱点が、穏やかなはずの目鼻立ちをさんざんいじくり回した結果、こんなに拗ねた人相になったのではないか、と僕は考えました。
主婦は北国には似つかわしくない黒い髪と黒い瞳を持っていました。
けれども言葉は、普通のイギリス人と少しも変わるところがありませんでした。
引っ越した当日、階下からお茶の案内があったので、降りて行ってみると、家族は誰もいませんでした。北向きの小さな食堂で、僕はその女主人と二人きりで向かい合って座っていました。
日の光が一度も当たったことがないような薄暗い部屋を見回すと、暖炉の上には寂しげな水仙が飾られていました。
女主人は僕に紅茶やトーストを勧めながら、いろいろな話をしました。
その時、何かのきっかけで、彼女は「自分の生まれ故郷はイギリスではなく、フランスなのよ」と打ち明けました。
そして黒い瞳を動かし、後ろのガラス瓶に挿してある水仙を振り返りながら、「イギリスは空が曇ってばかりで、寒くて嫌になるわ」と言いました。
花でさえ、この通りきれいに咲かないのよ、と教えたかったのでしょう。
僕は心の中で、この水仙の貧弱な咲き方と、この女のひねくれた頬を流れる、色のあせた血の巡りとを比べて、遠いフランスで見るような温かな夢を想像しました。
女主人の黒い髪や黒い瞳の奥には、何年も前に消えてしまった春の香りの、むなしい歴史が隠されているのかもしれません。
僕は「あなたはフランス語を話せますか?」と尋ねました。
彼女は「いいえ」と答えようとする舌先を止めて、続けて二、三句、流れるような南の国の言葉を話しました。
あんなに骨ばった喉から出ているとは思えないほど、美しい響きでした。

その日の晩ごはんの時、頭の禿げた、白い髭の老人がテーブルに着きました。
「これが私の父です」と紹介されたので、僕は初めて、この家に主人がいたのだと気づきました。
この主人は変わった言葉遣いをします。
少し聞いただけでも、決してイギリス人ではないことがわかります。
なるほど、親子して海峡を渡り、ロンドンに落ち着いたのだなと納得しました。
すると老人は、聞いてもいないのに自分から「私はドイツ人だ」と名乗ってきました。
僕は少し予想が外れたので、「そうですか」とだけ返しました。

自分の部屋へ戻って本を読んでいても、下の親子のことが妙に気になって仕方がありません。
あの爺さんは、骨ばった娘と比べても、どこ一つ似ているところがありません。
顔中が腫れ上がったように膨らんでいる真ん中に、肉付きのいい鼻がどっしりと寝転がり、細い目が二つついています。
南アフリカの大統領にクルーゲルという人がいましたが、よく似ています。
すっきりと心地よく目に入る顔ではありません。

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