初級翻訳・永日小品 第9話

夏目 漱石

柔らかな光に照らされているのだと分かると、霧のような光の向こう側に、はっきりとした色が見えてきました。それは黄色と紫と藍色でした。やがて、その中の黄色と紫が動き出しました。

私は目が疲れるのも忘れて、瞬きもせずにその動くものをじっと見つめました。すると、目の前の霧がたちまち晴れ渡りました。遠くの向こう側には、明るい太陽の光に暖かく照らされた海が広がっています。黄色い服を着た美しい男性と、長い紫色の袖をひるがえした美しい女性が、青々とした草の上に、くっきりと現れました。

女性がオリーブの木の下にある大理石の長椅子に座ると、男性は椅子の横に立って、上から女性を見下ろしました。そのとき、南から吹いてきた温かい風に誘われて、穏やかで心地よい音楽が、細く長く、遠くの波の上を渡って流れてきました。

穴の上も、穴の下も、一斉にざわめき出しました。彼らは闇の中に消えたのではなかったのです。闇の中で、暖かなギリシャの世界を夢見ていたのでした。

印象

外へ出ると、広い通りが家の前をまっすぐに貫いていました。試しにその道の真ん中に立って見渡してみましたが、目に入る家はどれも四階建てで、同じような色をしています。隣も向かいも区別がつかないほど似たような建物ばかりなので、さっき自分が出てきた家がどれだったのか、二、三軒通り過ぎて振り返ると、もう分からなくなってしまいました。不思議な町です。

昨日の夕方は、汽車の音に包まれて眠りました。夜の十時過ぎには、馬の蹄の音と鈴の響きに送られて、暗闇の中を夢のように駆け抜けました。そのとき、美しい街灯の光が、点々と何百となく目の前を通り過ぎていくのが見えました。それ以外は何も見ていなかったのです。この町の全貌を見るのは、今が初めてでした。二、三度この不思議な町を立ち止まりながら、見上げたり見下ろしたりした後、ついに左へ曲がって一町ほど歩くと、大きな四つ角に出ました。

道をよく覚えておこうとして、右へ曲がると、今度はさっきよりも広い大通りに出ました。その通りの中を、馬車が何台も行き交っています。どの馬車も屋根の上に人をたくさん乗せています。その馬車の色は赤だったり、黄色だったり、青や茶色や紺色だったりで、休む間もなく私の横を追い越して向こうへ走っていきます。遠くのほうを透かして見ると、どこまで五色の馬車が続いているのか分かりません。振り返れば、五色の雲のように動いてきます。

どこからどこへ人を運んでいるのだろうと立ち止まって考えていると、後ろから背の高い人が覆いかぶさるようにして、私の肩を押し出しました。避けようとして右を向いても、そこにも背の高い人がいました。左を向いても同じです。私を押した後ろの人も、またその後ろの人から押されています。それでも、みんな黙っています。そして、自然と前へ前へと動いていくのです。

私はこのとき初めて、人の海に溺れてしまったことを自覚しました。この海がどこまで広がっているのかは分かりません。けれど、広さの割にはとても静かな海です。ただ、どうしても外に出ることができません。右を向いても道が詰まっていて、左を見ても塞がっていて、後ろを振り返っても人でいっぱいです。だから、静かに前の方へ進むしかありません。まるで、たった一つの運命以外に自分を支配するものがないかのように、何万もの黒い頭が申し合わせたように歩調を揃えて、一歩ずつ前へ進んでいくのです。

私は歩きながら、さっき出てきた家のことを思い出そうとしました。同じような四階建ての、同じような色の、あの不思議な町は、どうやら遠くにあるようです。どこをどう曲がって、どこをどう歩いたら帰れるのか、ほとんど見当がつきません。たとえ帰れたとしても、自分の家を見つけ出すことはできそうもありません。あの家は、昨日の夕方、暗闇の中でひっそりと立っていただけですから。

私は心細く思いながら、背の高い人混みに押されて、仕方なく大通りを二つ三つ曲がりました。曲がるたびに、昨日の暗い家とは反対の方角へ遠ざかっていくような気がしました。そうして、目が疲れるほどたくさんの人間がいる中で、言葉にできないほどの孤独を感じたのでした。すると、道はゆるやかな坂道へと続いていました。
そこは、大きな道路が五つも六つも交わる広場のように見えました。
今まで一筋の流れとなって動いていた人の波は、坂の下で、いろいろな方向から集まってくる人々と混ざり合い、静かにぐるぐると回り始めました。
坂の下には、大きな石でできた獅子の像が置かれていました。
その体は全身灰色をしていました。
尾っぽは細いのですが、たてがみに渦を巻いたその頭は、四斗樽(しとだる)ほどもあって立派なものでした。
獅子は前足をそろえて、波のように押し寄せる群衆の真ん中で、まるで眠っているかのようでした。
そんな獅子が二つ並んでいました。
地面は石畳でしっかりと敷き詰められています。
その真ん中に、太い銅の柱が立っていました。
私は、静かに動く人の海の中に立ち、顔を上げてその柱の先を見上げました。
柱は、目が届く限り高く、まっすぐに伸びています。
その上には、大きな空が一面に広がっていました。
高い柱は、この空を真ん中で突き抜けているかのようにそびえ立っていました。
この柱の先に何があるのかは分かりませんでした。
私はまた人の波に押されて、広場から右側の通りへと、あてもなく下っていきました。
しばらくして振り返ってみると、竿のように細い柱の上に、小さな人間がたった一人立っているのが見えました。

人間

御作(おさく)さんは、目が覚めるが早いか、「まだ髪結いさんは来ないのか、髪結いさんは来ないのか」と騒いでいます。
髪結いさんには、昨日の夕方にしっかりとお願いしておきました。
「他の方の予約はありませんから、都合をつけて、必ず九時までには伺います」という返事を聞いて、ようやく安心して眠ったくらいなのです。
柱時計を見ると、もう九時まであと五分しかありません。
「どうしたのかしら」と、御作さんは本当にもどかしそうにしているので、見かねた下女が「ちょっと様子を見てまいります」と言って出ていきました。
御作さんは腰をかがめるようにして、障子の前に出した鏡台を、立ったまま覗き込みました。
そして、わざと唇を開けて、上下ともきれいにそろった白い歯をすべて見せました。
すると、柱の上で時計がボンボンと九時を打ちました。
御作さんはすぐに立ち上がって、部屋の襖を開け、「どうしたんですか、あなた、もう九時過ぎですよ。起きてくださらないと、出かけるのが遅くなってしまうじゃありませんか」と言いました。
御作さんの旦那は九時という音を聞いて、今やっと布団の上に起き上がったところです。
御作さんの顔を見るやいなや、「あいよ」と答えながら、気軽な様子で立ち上がりました。
御作さんはすぐに台所へ取って返し、楊枝(ようじ)と歯磨き粉と石鹸と手拭いをひとまとめにして、「さあ、早く行ってらっしゃい」と旦那に渡しました。
「帰りにちょっと髭(ひげ)を剃ってくるよ」と言い、銘仙(めいせん)のどてらの下に浴衣を重ねた旦那は、沓脱(くつぬぎ)へと降りました。

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