ただ、その色合いだけは、現代という時代を飛び越えて、ずっと昔の空気の中に黒々と埋もれているような、そんな古道具屋にぴったりな渋い調子でした。
井深は、これはきっと安いに違いないと見抜きました。
店主に値段を聞くと「一円だ」と言うので少し迷いましたが、ガラスも割れていないし、額縁もしっかりしているので、おじいさんと交渉して八十銭までまけさせました。
井深がこの女性の半身像を抱えて家に帰ったのは、寒い日の夕暮れどきでした。
薄暗い部屋に入り、さっそく額から絵を取り出して壁に立てかけ、じっとその前に座り込んでいると、ランプを持った妻がやって来ました。
井深は妻にランプを絵の近くにかざしてもらい、もう一度じっくりと八十銭の額を眺めました。
全体的に渋く黒ずんでいる中で、顔だけが黄色っぽく浮き出て見えます。
これも時代のせいでしょう。
井深は座ったまま妻を振り返り、「どうだ?」と聞きました。
妻はランプを持った片手を少し上げ、しばらく何も言わずにその黄ばんだ女の顔を眺めていましたが、やがて「気味の悪い顔ですねえ」と言いました。
井深はただ笑って、「八十銭だよ」と答えただけでした。
夕食をすませてから、踏み台に乗って欄間に釘を打ち、買ってきた額を頭の上に掛けました。
そのとき妻は、「この女は、何をしでかすか分からないような人相をしているわ。見ていると変な気持ちになるから、掛けるのはやめたほうがいいわよ」と言ってしきりに止めましたが、井深は「なあに、お前の思い過ごしだよ」と言って聞き入れませんでした。
妻は茶の間に戻っていきました。
井深は机に向かって調べものを始めました。
十分ほど経ったでしょうか、ふと顔を上げると、額の中が見たくなりました。
筆を止めて目をやると、黄色い女が額の中で薄笑いを浮かべています。
井深は、その口元をじっと見つめました。
さすがは画家の光の使いどころです。
薄い唇が両端で少し反り返り、その反り返ったところに小さな窪みを見せています。
結んだ口をこれから開けようとしているようにも見えるし、あるいは開いていた口をわざと閉じたようにも見えます。
ただ、なぜだか理由は分かりません。
井深は変な気分になりましたが、また机に向かいました。
調べものとはいっても、半分は書き写しのような作業です。
あまり集中する必要もなかったので、少し経つと、また顔を上げて絵の方を見ました。
やはり、その口元には何か意味ありげなものがあります。
それでも、表情はひどく落ち着いていました。
切れ長の一重まぶたの中から、静かな瞳が座敷の床を見下ろしています。
井深はまた机の方に向き直りました。
その晩、井深は何度も何度もこの絵を見ました。
そして、どことなく妻の言っていたことが当たっているような気がしてきました。
それでも翌朝になると、そんなことは気にしていないという顔をして役所へ出勤しました。
夕方の四時ごろ家に帰ってみると、昨夜の額が仰向けになって机の上にのっています。
午後の少し過ぎに、欄間の上から突然落ちたのだそうです。
道理で、ガラスがめちゃめちゃに割れているわけです。
井深は額の裏を返して見ました。
昨夜、紐を通した金具が、どういうわけか外れてしまっています。
井深はそのついでに額の裏板を開けてみました。
すると、絵の裏側にぴったり重なるように、四つ折りにされた西洋紙が出てきました。
開いてみると、インクで不思議なことが書いてあります。
「モナリサの唇には女性の謎がある。原始以降、この謎を描き得たものはダ・ヴィンチだけである。この謎を解き得たものは一人もいない」
翌日、井深は役所へ行って「モナリサとは何だ?」とみんなに聞きましたが、誰も分かりませんでした。
じゃあ「ダ・ヴィンチとは何だ?」と尋ねましたが、やはり誰も知りませんでした。
井深は妻の勧めに従い、この縁起の悪い絵を五銭で屑屋に売り払ってしまいました。
火事
息が切れたので立ち止まって見上げると、火の粉がもう頭の上を通り過ぎていきます。
霜が降りるほど澄み切った深い夜空の中に、数え切れないほどの火の粉が飛んできては、パッと消えていきます。
かと思えば、すぐあとから鮮やかな火の粉が、一面に風に吹かれながら、追いかけっこをするように、チラチラと赤く光りながら現れます。
そして、不意に消えていくのです。
その飛んでくる方角を見ると、まるで巨大な噴水が一つにまとまったかのように、夜の寒い空を隙間なく真っ赤に染め上げています。
二、三間先に大きな寺があります。
長い石段の途中に太いモミの木が静かな枝を夜空に広げ、土手から高くそびえ立っています。
火はその向こう側から上がっています。
黒い幹と動かない枝が、暗闇の中でくっきりと浮かび上がり、それ以外の場所はすべて真っ赤です。
火元はこの高い土手の上に違いありません。
あと一町ほど進んで左へ坂を上れば、現場へ出られるはずです。
また急ぎ足で歩き出しました。
後ろから来る人たちが、次々と追い越していきます。
中にはすれ違いざまに大声を上げる人もいます。
暗い道が、なんだか生き物のようにざわめき始めました。
坂の下まで歩いて、いよいよ上ろうとすると、胸が苦しくなるほど急な登り坂です。
その急な傾斜を、人の頭がいっぱいに埋め尽くし、上から下までひしめき合っています。
炎は坂の真上から容赦なく舞い上がります。
この人の渦に巻き込まれて坂の上まで押し上げられたら、振り返る暇もなく焼き殺されてしまいそうです。あと半町ほど進むと、同じように左へ曲がる大きな坂がありました。
こっちの坂から上るほうが楽で安全だと思い直し、ぶつかってくる人をうまくよけながら、やっと曲がり角までたどり着いたときのことです。向こうから、激しい鐘の音を鳴らして蒸気ポンプ車がやってきました。
「どかない奴はみんな踏み殺すぞ!」と言わんばかりの猛スピードで人ごみをかき分け、馬は高い蹄の音を響かせながら、鼻先をぐいっと坂のほうへ向けました。
馬は泡を吹いた口を首にすりつけ、とがった耳を前に立てていましたが、いきなり前足をそろえて勢いよく飛び出しました。
その瞬間、栗毛色の馬の体が、法被(はっぴ)を着た男の提灯(ちょうちん)をかすめ、まるでビロードのように光りました。
真っ赤に塗られた太い車輪が、自分の足に触れるのではないかと思うほど、ギリギリのところで回りました。
そう思った次の瞬間、ポンプ車は一直線に坂を駆け上がっていきました。
坂の途中まで来ると、さっき正面にあった火の手が、今度は斜め後ろに見えるようになりました。
坂の上から、また左へ曲がって引き返さなければなりません。
どこか横道はないかと探していると、細い路地のような場所が一つありました。
人に押されるようにして入り込むと、中は真っ暗です。
ただ、息をする隙間もないほど人でぎっしり詰まっていました。
みんな、必死になって声を張り上げています。
火は、明らかにその向こうで燃えていました。
十分ほど経って、やっと路地を通り抜けて大通りに出ました。
その通りも、組屋敷の敷地くらいの幅しかないのに、すでに人でいっぱいになっています。
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