初級翻訳・狼疾記 第3話

中島 敦

そうしているうちにハッと我に返ると、自分の周りには相変わらず人々が行き交い、電灯があかあかと灯り、電車が動き、自動車が走っています。
「ああ、よかった」と、彼はホッとするのでした。これがいつものことでした。

子供の頃に食べて食あたりした食べ物を、一生嫌いになってしまうことがあるように、人類やこの地球に対する単純な不信感が、もはや単なる考え事ではなく、感覚として彼の体の中に住みついてしまったのではないか、と三造は思います。
今でも、空気が湿った午後の昼寝から覚めた瞬間などに、どうしようもない、訳の分からない恐ろしさや空虚さに襲われることがあります。
そういう時、彼はいつもあの頃の、ひねくれた小学生の恐怖を思い出さずにはいられません。
考え方の青臭い殻が、実際の生活の複雑さの中で多少は脱ぎ捨てられた(と思われた)後も、かつての不安の気持ちだけは、そこから切り離されて、いつまでも心の中に残っているのです。

南米のリャマは、太古の氷河時代に、危険に襲われた時もそこだけは安全だという避難場所を持っていました。地球の環境が変わり、今の時代になって彼らを襲う危険の性質が変わってしまったにもかかわらず、かつての避難場所がもう何の役にも立たないと分かっていても、現在新大陸にいるリャマは、死や危険を感じ取ると、必ず祖先がかつて避難していた場所を目指して逃げようとするそうです。
三造の抱える不安も、あるいはこうした前時代の名残なのかもしれません。
しかし、このどうにもならない漠然とした不安は、たびたび彼の人生の底に流れる「主旋律」になりかねません。
人生で起こるあらゆる出来事の底に、この目に見えない暗い流れが走っていて、それが人生の行く先や、前後左右を区切っているように思えます。まるで街の下を流れる下水のように、時々ほんの少しの隙間から、微かだけれど虚しい響きが聞こえてくるような気が、三造にはするのです。彼がまだ元気いっぱいで、体の感覚を思い切り楽しんでいた頃も、そして今のように静かに一人で暮らしている時も、いつも心の奥底では、パスカルという哲学者の言葉のような、かすかな不安の調べがどこからか聞こえていました。
その音が少しでも聞こえてくる限り、どんなに手に入れた幸せや名誉も、どこか制限付きの、完璧ではないものに思えてしまうのです。
この響きをなんとか消そうと、彼はどれほど努力したことでしょう。
自分の心にもないような立派な説教を、何度自分自身に言い聞かせたことか。
「僕たちは、一番いい食べ物じゃなきゃ食べられないのか? 一番いい服じゃなきゃ着られないのか? 最高の星じゃなきゃ住めないなんて思うほど贅沢じゃないなら、今与えられているものの中にも、きっといいところがあるはずじゃないか……」そんなふうに。
「もっと簡単な、前向きな考え方を教えよう。天才か、そうでないか。健康か、体が弱いか。お金持ちか、貧しいか。そんな違いなんて、この世に生まれてきたことと、生まれてこなかったことの差に比べれば、大したことじゃないんじゃないか?」と、そんなふうに考えようとしたり。
「この世で立派に生き切れば、神様は次の世界を約束してくれる義務がある、なんて言った素晴らしい男の考え方を見てごらん」……そんな言葉を並べたり。
「君は幸せじゃなきゃいけないなんて、誰が決めたんだ? すべては『幸せにならなきゃ』という思い込みを捨てることから始まるんだ」などと自分を励ましたり。
他にも、アンドレ・ジイドの『地の糧』だとか、チェスタトンの明るいエッセイだとか、そんな本たちが、弱々しい声で彼を励まそうとしてくれました。
けれど彼は、誰かから教えられたり、無理やり信じ込まされたりしたものではなく、自分自身の心から納得できる「この世界への感じ方」が欲しかったのです。
曲がりくねった理屈を並べて、「ああ、自分の人生は幸せなんだ」と無理やり自分を納得させるような幸せでは、何の意味もありませんでした。
それでも、時々ごくまれに、心がぱっと晴れやかになる瞬間がないわけではありません。
生きるということは、真っ暗で果てしない時間と空間を切り裂いて走る、ひとすじの稲妻のようなものだと思えるのです。周りの闇が深ければ深いほど、そして光る瞬間が短ければ短いほど、その光の美しさや尊さは増していくのだと、心からそう信じられることもありました。
しかし、移り気な彼の心は、次の瞬間にはすぐに苦い幻滅の底へ落ち込んでしまい、いつも以上に惨めで、どうしようもない気持ちになってしまうのが常でした。
だから最後には、そんなふうに心が昂ぶっている時でさえ、後で必ずやってくる幻滅の苦しみを恐れて、今感じているはずの喜びさえも、押し殺そうと頑張るようになってしまったのです。

さて、今、川沿いの道を歩きながら、三造の中にいる弱々しい「常識人」が、彼自身のこんな馬鹿げた非常識さを笑い、忠告しています。
「冗談じゃない。いい年をして、まだそんな下らないことを考えているのか。もっと現実的で、もっと大切な問題が山ほどあるだろう。なんて非現実的で、取るに足らなくて、贅沢な悩み方をしているんだ。そんなことは、みんなとっくの昔に卒業してしまったこと、あるいはあまりに馬鹿げているから、最初から相手にしないようなことじゃないか。少しは恥ずかしく思ったらどうだ」
「本当に、みんなはこの問題をもう卒業してしまったのだろうか?」と、もう一人の彼が問い返します。
「解決する見込みのない問題を最初から無視するという、世間の習慣はとても都合がいいものだ。この習慣のおかげで、みんな幸せでいられるんだ。実際のところ、多くの人はこんな馬鹿げた不安や疑問なんて感じない。それなら、こうして感じてしまう人間は、どこか壊れているのかもしれない。足の悪い人が歩き方を隠すように、僕もこの心の異常を隠すべきなんだろうか? ところで、一体『正常』とか『異常』とか『本当』とか『嘘』なんていうものは、何なんだ? 結局は、ただの統計上の数字に過ぎないんじゃないか。いや、そんなことはどうでもいい。何より大事なのは、僕の性格上、どんなに人に笑われようと、この『形而上学的(けいじじょうがくてき)』とも言えるような不安が、他のどんな問題よりも先に出てきてしまうという事実だ。こればかりは、どうしようもない。この不安が解決しない限り、僕にとって、人間界のあらゆる出来事は、どこか制限付きの意味しか持たないのだから」

ところで、これについて昔からたくさんの答えが出されてきましたが、結局それらは「この悩みは解決不可能だ」ということを証明しているようなものです。
そうだとすれば、心の平穏のために唯一必要なことは、「形而上学的な迷いそのものを、形而上学的に捨て去る」ことだということになります。
それは彼も、嫌というほど分かっています。
それでも、どうにもならないのです。
彼がこうした馬鹿げた事柄への執着を(しかも、哲学者みたいに冷静に考える力は欠けているのに)持って生まれてきてしまったことこそが、唯一のかけがえのない「運命」なのです。
結局、人はそれぞれ自分の持っている素質を広げていくしかありません。

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