初級翻訳・かめれおん日記 第1話

かめれおん日記

「一匹の虫がいた。
その体には二つの口があり、お互いにエサを奪い合っていた。
やがて、お互いを食べ合い、最後には共倒れして死んでしまった。」
――韓非子――

          一

 理科の教室から職員室へ戻る途中、廊下で後ろから「先生!」と呼び止められました。
振り返ると、一人の生徒が立っていました。顔は見覚えがあるのですが、名前がすぐに出てきません。その生徒は私の前にやってくると、何と言っているのか少し聞き取りにくい言葉を口にしながら、五寸角くらいの、ふたのないお菓子箱のようなものを差し出しました。
箱の中には綿が敷いてあり、その上に青黒いトカゲのような、妙な形の生き物が乗っています。
「なんだ? えっ、カメレオン? おい、カメレオンじゃないか。これ、生きてるのか?」
 思いがけない生き物の登場にびっくりして、私が矢継ぎ早に質問すると、生徒は「はい」と頷き、顔を赤らめながら説明してくれました。
親戚の船乗りの人がカイロかどこかで手に入れたものらしいのですが、珍しい生き物だから学校へ持っていったらどうかと言われ、理科の先生である私のところへ持ってきたのだそうです。
「ほう、それはどうも」
お礼を言うのも忘れて、私はその箱を受け取り、龍に似た小さな怪物をじっと眺めました。
トカゲよりもずっと立体的で、頭が大きく、尾が長く巻いています。寒さのせいか元気がないようですが、それでも真っ青な前足で、いかめしい様子で綿を踏みしめていました。
生徒は私にカメレオンを渡すと、いつまでも私の前にいるのが恥ずかしいのか、ひょこっと頭を下げて去っていきました。

職員室へ持っていってから、私は初めて「飼育の難しさ」に気づきました。
学校には温室がありません。とりあえず火鉢のそばにあった鉢植えのホオノキの枝に止まらせてみました。
最初はじっとして動かなかったのですが、しばらくすると火の温かみで元気が出てきたのか、少しずつ動き出しました。
目のまわりはかなり大きいのですが、瞳が外をのぞく穴はとても小さく、その小さな穴をぐるぐるとあちこちへ向けながら、奥のほうからこの見慣れない場所を探っているようです。
ホオノキの枝から葉っぱのほうへ這い出そうとしては、体の重みで滑りそうになり、葉の縁を足の指でつかんで踏ん張ろうとしますが、結局落ちてしまいます。
何度も鉢の土や床の上に落ちました。
そのたびに、自分の失敗を笑われて怒った子どものような、真剣な顔つきで起き上がります(背中に立っている飾りみたいなギザギザが、いっそう厳めしくて真面目な雰囲気を醸し出しています)。そして、あてもなく歩き出すのです。

職員たちはみんな珍しがって見にきました。たいていは「これは何ですか?」と不思議そうに尋ねます。
国語の老先生は、どう勘違いしたのか、「それは何でも性病の薬になるやつでしょうがな。陰干しにして、煎じてな」などと言い出しました。
誰かがどこからかハエを捕まえてきて、片方の羽をもいでから手のひらに乗せて差し出しました。
すると、カメレオンの口からサッと薄い朱色の肉の棒が繰り出されました。
舌の先にハエがくっつくと同時に、もう口は閉じていました。

結局、この生き物をどう扱おうかと、他の理科の先生たちと相談しました。
どうせ長くは生きられないだろうけれど、カナリアの箱のようなものを作って、なるべく暖かい場所に置き、このまま学校で飼ってみよう。餌は生徒たちに季節外れのハエでも探して持ってこさせればなんとかなるだろう、ということになりました。
しかし、その簡単な飼育設備ができるまでは、夜の寒さや猫に襲われる心配があるので、私が預かってアパートで飼うことにしました。

その夜、私は部屋の小さなストーブに、いつもより多めに石炭を入れました。
この間死んでしまったオウムの丸いカゴを下ろして、その中に綿を敷き、そこへカメレオンを入れました。
水を飲むのかどうかは分かりませんが、とりあえず鳥用の水入れも中に入れてやりました。
おかしいことに、私はこの出来事にすっかりワクワクして、興奮していました。寒さのせいでいずれ死なせてしまうだろう、という考えだけが私を少し暗い気持ちにさせました。
どうせ長くは持たないのなら、学校で飼わずに、自分のところで飼いたいと思いました。動物園に寄贈しようかとも考えましたが、なんだか手放すのが惜しいのです。まるで私個人がもらったもののような気分でした。

久しく私の中で眠っていた「冒険へのあこがれ」が、この珍しい小動物の予期せぬ出現とともに、再び目覚めたのです。
かつて小笠原を旅した時の海の色。熱帯の木々の厚い葉のツヤ。油ぎった眩しい空。
原色のような鮮やかな色彩と、燃えるような光と熱。
珍しい異国のものに対する若々しい感動が、急に心の中でパッと動き出しました。
外はみぞれが降りそうな空模様だというのに、私は久しぶりに胸が膨らむような気持ちでした。
ストーブの近くにカゴを置き、部屋の隅にあったゴムの木とタニワタリの鉢をそのそばに並べました。
私はカゴの入り口をあけておきました。どうせ部屋から逃げ出す心配はないし、時には木に止まりたくなるかもしれないと思ったからです。

二

 朝起きてみると、カメレオンはゴムの木などには止まらずに、机の下に滑り落ちていた本の上に乗って、小さな瞳でこちらを見ていました。
思ったより元気なようです。
もっとも、昨日の夜は部屋をかなり暖めたので、乾燥しすぎたせいか、私の方が少し喉を痛めてしまいました。カメレオンが乗っていたその本は、ショペンハウエルの『パレルガ・ウント・パラリポメナ』という分厚い哲学の本でした。
今日は仕事が休みの日でしたが、カメレオンのことが気になって、午後から学校へ行くことにしました。
昨日の夜考えた通り、学校には専用の設備がないのだから、このまま学校に置いても結局同じこと。それなら、いっそ私の家で飼わせてもらおうと考えたのです。
まさか学校側が、たった一匹のカメレオンのためにわざわざ立派な温室なんて作ってはくれないでしょうから。
学校へ行って「家で飼いたい」とお願いしてみると、校長先生をはじめ他の先生たちは、もう昨日のことなんてほとんど忘れてしまっているような口ぶりでした。
「ああ、あの昨日の虫のことですか!」なんて言うのです。
私一人だけが、この小さな生き物の出現に大喜びしていただけだったようです。

生徒たちのところへ行って、昨日お願いしておいたハエをもらいました。
意外とハエってしぶとく生き残っているものですね。
マッチ箱がいっぱいになるほど集まっていました。これなら二、三日分のエサには十分足りるでしょう。
ハエを持って帰ろうとしていると、後ろから国語の先生の吉田さんが追いかけてきて、「ちょうど自分も帰るところだから」と、一緒に歩き出しました。
どうやら私に何か話したくてたまらないことがあるようです。
途中で「M・ベエカリイ」という店に寄ってお茶を飲みながら、一時間ほど話をしました。
吉田さんは私とだいたい同じくらいの年齢ですが、本当にこの男ほどエネルギッシュで、徹底的に現実主義で、恥ずかしさや照れくささといった感情とは無縁な人間を、私は他に知りません。

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