初級翻訳・小公女 第1話

小公女

はしがき(お父さん、お母さんへ)

この『小公女』という物語は、『小公子』を書いたアメリカのバーネット女史が、その姉妹編として書いたもので、子どもたちの読み物としては、世界でも最高傑作の一つです。
『小公子』が、貧しい少年がひょんなことからイギリスの貴族の子になる物語であるのに対し、この『小公女』は、お金持ちの少女が、突然すべてを失った孤児になる物語です。
しかし、バーネット女史が伝えたかったのは、強く正しい心を持っていれば、どんな境遇に置かれても、その正しさを決して曲げないということ。彼女はただ、そのことを両方の立場から描いて見せたのです。
『小公子』を読んで何かを感じ取った皆さんは、この『小公女』を読んでも、また別の大切な何かを得られると信じています。
昭和2年12月 菊池寛

一 インドからロンドンへ

ある陰気な冬の日のことでした。
ロンドンの街はひどい霧に包まれていました。通りには街灯がともり、お店のショーウィンドウはガスの光でキラキラと輝いていて、まるで夜が来たかのように思えるほどでした。
その中を、少し変わった雰囲気を持つ少女が、お父さんと一緒に馬車に揺られて進んでいました。急ぐ様子もなく、ゆっくりとした道のりです。
お父さんの腕に抱かれた少女は、足を縮めて座り、窓の外を行き交う人々をじっと眺めていました。セーラ・クルーはまだ七歳になったばかりでしたが、まるで十二歳の子のように落ち着いた、大人びた目つきをしていました。
彼女はいつも大人の世界について空想ばかりしていたので、自然と顔つきも大人っぽくなったのでしょう。セーラ自身も、まるで長い長い人生を歩んできたような気分でいました。
セーラは今、お父さんのクルー大尉と一緒に、インドのボンベイからロンドンに着いたばかりなのです。
あの暑いインドのこと、大きな船のこと、甲板の様子、船で知り合ったおばさんたちのことなどを思い出すと、今こうして霧の街を不思議な馬車で通っていることさえ、夢を見ているようで信じられませんでした。
セーラは父にぴたりと寄り添って、「お父様」と小声で呼びかけました。
「なんだい、セーラ?」クルー大尉は娘をぎゅっと抱きしめ、その顔をのぞきこみました。「何を考えているんだい?」
「ねえ、ここがあの場所なの?」
「ああ、そうだよ。とうとう着いたんだ」
セーラはまだ七歳でしたが、そう言った時のお父さんが、悲しい思い出に心を痛めていることを感じ取りました。お父さんがセーラの口癖である「あの場所(イギリス)」について話し始めたのは、ずっと前のことでした。
お母さんはセーラが生まれた時に亡くなってしまったので、セーラはお母さんのことを何も知らず、したがって恋しいと思うこともありませんでした。若くて立派で、とても愛情深いお父さんこそが、セーラにとってたった一人の家族でした。
父と娘はいつも一緒に遊び、お互いが一番大切な存在でした。セーラは、みんなが彼女には聞こえないと思って話しているのを聞いて、お父さんが裕福であることを知りました。そして、自分も大人になったら裕福になるのだということも知りました。
「裕福」がどういうことなのか、セーラにはよくわかりませんでした。けれど、自分はきれいな平屋の家に住んでいるし、たくさんの召使いがいるし、欲しいものは何でも手に入る。きっとこれが「裕福」というものなのだろう、とセーラは思っていました。
七歳になるまで、セーラの唯一の気がかりは、いつか連れて行かれるという「あの場所」のことだけでした。
インドの気候は子どもたちの体には良くなかったので、インドで生まれた子どもたちは、できるだけ早くイギリスへ送られ、学校に入れられる決まりだったのです。セーラは、他の子どもたちがイギリスへ帰っていくのを見たり、親たちが子どもから届いた手紙の話をしているのを聞いたりしていました。
だから、セーラもいつかはインドを去らなければならないのだろうと思っていました。
お父さんが時々してくれる航海の話や、新しい国のお話はとても魅力的でした。でも、「あの場所」に行けばお父さんと離れ離れになってしまう。そう思うと、セーラの胸はキュンと痛んだのです。
「パパは、一緒に来てくれないの?」と聞いたのは、五歳の時のことでした。
「一緒に学校へ行かない? 私がお父さんにお勉強を教えてあげるから!」
「でもセーラ、離れているのはそんなに長い時間じゃないんだよ。それに、お前はたくさんの女の子がいる素敵なお家へ行くんだ。そこでみんなと遊ぶんだよ。お父さんは本をたくさん送ってあげるからね。お前はどんどん大きくなって、一年もしないうちにすっかり大人になって、賢くなって帰ってくるんだ。そうしたら、お父さんの世話をしてくれるだろう?」
その時のことを思い出すと、セーラはうれしくなりました。
お父さんのために家を片付けたり、一緒に馬に乗ったり、お父さんがパーティーを開く時にはテーブルの主賓として座ったり、お父さんの話し相手になったり、本を読んであげたり……そんなことができるようになるためなら、喜んでイギリスへ行こう、とセーラは思ったのでした。セーラは学校でお友達がたくさんできることについては、それほど嬉しいとは思いませんでしたが、本をたくさん送ってもらえることには、間違いなく心躍るものがありました。
セーラは何よりも本が大好きでした。
本さえあれば、寂しいと感じることなどありませんでした。
それにセーラは、美しい物語を自分で空想し、それを言葉にして語り聞かせることが得意でした。
時には、その物語をお父さんに話して聞かせることもありました。
お父さんもセーラと同じように、その物語を喜んで聞いてくれました。

「ねえ、お父様」
セーラは馬車の中で、そっと話を切り出しました。
「もうここに着いたのですから、覚悟を決めなければなりませんね」

お父さんは、セーラがあまりにませたことを言うので、笑いながら彼女にキスをしました。
実はお父さん自身、ちっとも諦めてなどいなかったのですが、それをセーラに悟られてはいけないと思ったのです。
少しおどけたところのある小さなセーラは、お父さんにとって、なくてはならない大切な相棒でした。
インドの家へ帰ったとき、あの白い上着を着たセーラが迎えに出てこないのだとしたら、どれほど寂しいことだろう――クルー大尉は、そう思わずにはいられませんでした。
お父さんは娘をしっかりと抱き寄せました。

馬車はちょうどその時、陰気な街並みの中をガタゴトと進んでいきました。
そこに、二人の目指す家があったのです。
街並みはどれも、大きくてどんよりとしたレンガ造りの建物ばかりでした。
その中の一軒、正面の扉の上には、真鍮(しんちゅう)の名札がキラリと輝いていました。
そこには黒い文字で、こう彫られていました。
「ミス・ミンチン女子模範学校」

「さあ、着いたよ、セーラ」
クルー大尉はできるだけ明るい声でそう言うと、セーラを馬車から抱き下ろしました。
セーラは後になってよく思い返したのですが、この家はどこかミンチン先生にそっくりでした。

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