大きな虫でしょうか。いや、そうではありません。
あっ、手です。
人間の手です。
人間の手だけが、テーブルの上をはっているのです。
テーブルには三本のあしがついているのですが、そのあしのむこうには、壁紙が見えています。
ですから、テーブルの下には、だれもかくれてなんかいないのです。
人間のからだはなくて、ただ手首だけが動いているのです。
正一君は、おばけでも見たように、ゾーッとしました。
からだから切り離された手首だけが、生きて動いているなんて、そんなことが考えられるでしょうか。
しかし、まさに、そいつは人間の手首でした。
それが大きな虫のように、木の箱のほうへ、はいよっていくのです。
あっ、とうとう、箱をつかみました。
そして、パッと、その手を上にあげたかと思うと、そのまま、箱も手首も、かき消すようになくなってしまいました。
手首だけが、箱を盗んだのです。
そして、消えてしまったのです。
正一君は、おそろしい夢でも見たような気がしました。
しかし、夢ではありません。
むこうの二階では、たしかに、おばけのようなふしぎが起こったのです。
正一君は、急いで部屋を出ると、階段をおりて、おとうさんの書斎へはいっていきました。
そして、いまのできごとを話したのです。
おとうさんの西村さんは、それを聞くと笑いだして、
「そんなばかなことがあるもんか。おまえは、まぼろしでも見たんだろう。」
と、とりあってくれません。
「いいえ、まぼろしじゃありません。確かに見たのです。おとうさん、二十面相かもしれませんよ。」
「えっ、二十面相だって?」
さすがに西村さんも、びっくりしました。
「おとなりは松波博士のうちでしょう。松波博士の古代研究所へ、このあいだ二十面相がしのびこんでいたというじゃありませんか。ひょっとしたら、あの消えた木の箱の中には、エジプトの巻き物がはいっているのではないでしょうか。」
正一君は、かしこい少年でした。
早くも、そこまで、察していたのです。
それをきくと、西村さんも、すてておくわけにはいきません。
新聞で古代研究所の事件を読んでいたからです。
「それじゃ、これから、おとなりへおまえといっしょに行って、おまえの見たことを、お知らせしてあげようか。」
「ええ、それがいいと思います。」
そこで、西村さんと正一君とは、つれだって、松波博士の新しいすまいを、たずねることになりました。
いって見ると、博士のうちは、大さわぎでした。
松波博士の奥さんは、ずっと前になくなって、子どももなく、うちには書生と、ばあやと、女中さんがいるだけですが、その四人が、あっちへいったり、こっちへいったり、家の中をうろたえ回っているのです。
それでも、おとなりの西村さんが、たずねてきたとわかると、松波博士は西村さんたちふたりを、一階の応接間へ、通しました。
この部屋は、二階と違って、いろいろな道具がりっぱにならんでいます。
「おまえが見たことを、お話してごらん。」
西村さんに言われて、正一君は、さっきのふしぎなできごとを、くわしく話しました。
すると、松波博士はうなずいて、
「ああ、そうでしたか。それでわかりました。じつは、わたしも、箱をつかんでいる手首を見たのです。けっして正一君はまぼろしを見たのではありません。」
「じゃ、先生も、あのとき、ドアの外から見ていたんですか。」
正一君がたずねました。
「いや、あの部屋で見たのではありません。階段です。階段を、箱をつかんだ手首だけが、宙に浮いて、フワフワと降りてきたのです。ばけものです。わたしは、驚いて、そのあとを追いました。しかし、手首は、わたしの手をスーッとかわして、階段を降りると、廊下を玄関の方へ、飛んでいくのです。フワフワと、宙を浮きながら、恐ろしい早さで、飛んでいくのです。玄関のドアが、ひとりでにスーッと開きました。そして、そこから、手首は、外へ出て行ってしまいました。むろん、箱をつかんだままです。あの箱の中には、だいじなエジプトの巻き物がはいっているのです。わたしは、夢中になって、追っかけました。しかし、わたしが外へ出たときには、手首も箱も、もう見えなくなっていました。なんだか、スーッと空たかく、舞いあがってしまったような気がします。それで、警察に電話をかけるやら、私立探偵の明智さんに電話をかけるやら、大さわぎをしていたところですよ。」
そう話し終わって、松波博士は、がっかりしたように、うなだれるのでした。
「先生っ。」
そのとき、正一君が、とんきょうな声をたてました。
「透明人間かもしれませんよ。二十面相は、ずっとまえに、透明人間にばけたことがあります。こんども、その手を使ったのじゃないでしょうか。」正一君は、少年探偵団の仲間たちがいるので、二十面相のことはよく知っているのです。
ああ、透明人間。
二十面相は本当に透明人間になる魔力を持っているのでしょうか。
そうだとしたら、これからどんな不思議なことが起こるのでしょう?
空中の声
目的の品を手に入れた二十面相は、それからひと月ほどの間、どこかに隠れたのか、姿を現しませんでした。
ところが、ある晩のこと、港区の静かな屋敷町にある、恩田さんの家に恐ろしいことが起こりました。
恩田さんは三ッ木真珠株式会社の重役でした。
家族はおくさんと、ひとりっ子の章太郎君の三人だけで、あとは雇い人ばかりなのですが、章太郎君の家庭教師と書生をかねた、山口武雄という青年が、家族と同じようにあつかわれ、食事なども三人といっしょにしていました。
夕ご飯がすみますと、その四人と二人の客が、洋室に集まって、大きなテーブルを囲んでいました。
お客さんというのは、恩田さんの会社の社員の友田さんと、親せきの北川さんでした。
きょうは恩田さんの誕生日で、ふたりのお客さんを呼んでいっしょに食事をしたのですが、そのあとでこの部屋に集まって、テーブルの上に置いてあるものを見ているのです。
それは美しいゾウの置き物でした。
高さ二十センチぐらいのゾウが、全身何千粒ともしれない真珠の玉でできているのです。
ゾウの目には黒っぽい猫目石がはめてありました。
その猫目石一つだけでも、何十万円という値打ちのものです。
ゾウのからだ全体では、どれほどの値打ちがあるかわかりません。
この真珠のゾウは、三ッ木真珠会社がずっと前にフランスの大きな展覧会に出品したもので、それを恩田さんがゆずりうけて、家宝としているのです。
「わたしは、去年もこれを拝見したが、いつ見てもすばらしいね。ゾウの形がまるで生きているようだ。この真珠の色がなんとも言えないね。」
親せきの北川さんが、こらえきれないように言うのでした。
「一年にたった一度しか見られないというところに、値打ちがあります。おうちのかたも、恩田さんの誕生日のほかは、ごらんにならないのでしょうね。」
社員の友田さんが言いました。
そのとおり、ひとり息子の章太郎君も、おかあさんも、この宝物はめったに見ることができないのです。
章太郎君は六年生ですが、一年に一度このゾウを見るのが楽しみでした。
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