初級翻訳・のろまのハンス 第1話

のろまのハンス

ある田舎に、古いお屋敷がありました。
そのお屋敷には、年をとった地主が住んでいました。
地主にはふたりの息子がいましたが、ふたりとも、ものすごく頭がよくて、その半分でも十分すぎるほどでした。
ふたりは、王さまのお姫さまに結婚を申しこもうと考えました。
どうしてそんなことを考えたかというと、実はこういうわけです。
お姫さまが「だれよりも上手に話のできる人を、お婿さんにします」と、国じゅうにふれまわらせていたからなのです。
そこでふたりは、一週間のあいだ、いろいろと準備をしました。
つまり、それだけしか時間がなかったのです。
でも、それだけあれば十分でした。
なぜなら、ふたりには「予備知識」というものがあったからです。
しかも、この予備知識というのは、いつでも役に立つ便利なものなのです。
ひとりは、ラテン語の辞書を全部と、町の新聞を三年分、すっかり頭に詰め込んでいました。
おまけに、前から読んでも後ろから読んでも、自由自在にすらすらと言えるほどでした。
もうひとりは、組合の規則をすっかり覚えていて、組合長ならだれでも知っていなければならないことを、完璧に心得ていました。
ですから、政治の話ならだれとでもできる自信がありました。
それに、上品で手先も器用だったので、馬の手綱に刺繍をすることだってできたのです。
「お姫さまは、ぼくがもらう!」と、ふたりとも言いました。
お父さんは、それぞれに立派な馬を一頭ずつくれました。
辞書と新聞を暗記している息子は、炭のように黒い馬をもらい、組合長のように賢くて刺繍ができる息子は、乳色の白い馬をもらいました。
それからふたりは、口の端に肝油をぬって、よくすべるようにしました。
召使いたちはみんな中庭に出て、ふたりが馬に乗るのを見ていました。
そのとき、三番めの息子が出てきました。
実は、息子は三人いたのです。
しかし、この三番めの息子を兄弟の中に数える人は、だれもいませんでした。
なぜなら、ふたりの兄さんのような「知識」というものを、何ひとつ持っていなかったからです。
そしてこの息子は、みんなから「のろまのハンス」と呼ばれていました。
「そんな立派な服を着て、どこへ行くんだい?」と、ハンスがたずねました。
「王さまの御殿へ行って、お姫さまと話をするのさ。たいこを鳴らして国じゅうにふれまわっていたのを、おまえ、聞き逃したのか?」そう言って、ふたりはハンスにそのことを話してやりました。
「こいつはたまげた! じゃあ、おれもいっしょに行くよ」と、のろまのハンスは言いました。
兄さんたちはハンスを笑って、そのまま馬に乗って行ってしまいました。
「お父さん、おれにも馬をくだせえ!」と、のろまのハンスは大きな声で言いました。
「おれも嫁さんをもらいたいんだ。お姫さまがぼくをもらうなら、もらってやってもいい。お姫さまがぼくをもらわなくたって、ぼくのほうでお姫さまをもらってやるからさ!」
「何をバカなことを言っているんだ!」とお父さんは言いました。
「馬はやれない。おまえに話なんてできっこない! だがな、兄さんたちは立派な若者なんだ!」
「馬がもらえないなら」と、のろまのハンスは言いました。
「じゃあ、ヤギに乗って行くよ。あいつはぼくのものだし、それに、あいつだってぼくを乗せて行くくらいはできるさ!」そう言って、ヤギの背中にまたがると、その横っ腹をかかとで蹴とばして、大通りを一直線に駆け出しました。
うわあ! その速いこと、速いこと! 「ここだよお!」と、のろまのハンスは怒鳴りました。
それから、あたりに鳴り響くような大声で、歌を歌いました。
しかし、兄さんたちは黙って、馬を先に進ませて行きました。
ふたりはひとことも言いません。
今はそれどころではないのです。お姫さまの前へ出たときに話そうと思っている、とっておきの名案を、はじめから念には念を入れて考え直さなければならなかったのです。
「オーイ、オーイ!」と、のろまのハンスが叫びました。
「ここだよお! おれが大通りで見つけたものを見てくれ」そう言いながら、途中で見つけてきた、死んだカラスを見せました。
「のろま!」と、ふたりは言いました。
「それで、どうしようっていうんだ?」
「お姫さまにあげようと思うんだ」
「うん、そうしな」ふたりはそう言って、笑いながら、なおも馬を進めていきました。
「オーイ、オーイ! ここだよお! いま見つけたものを見てくれ。毎日、大通りで見つかるようなもんじゃあねえぞ」
そこで兄さんたちは、また後ろを振り返って、こんどは何だろうと眺めてみました。
「のろま!」と、ふたりは言いました。「古い木靴じゃないか。
しかも、上のほうが取れてなくなっているぞ! そんなものを、お姫さまにあげるっていうのかい?」
「そうだよ」と、のろまのハンスは答えました。
兄さんたちは笑いながら、どんどん馬を進めていきました。
こうして、ずっと先まで進みました。
「オーイ、オーイ! ここだあ!」と、のろまのハンスが叫びました。
「いやはや、今度はもっとひどいことになったぞ。
オーイ、オーイ! こいつぁ、すげえ!」
「今度は、何を見つけたんだ?」と、ふたりの兄弟がたずねました。
「ああ!」と、のろまのハンスが言いました。
「言うまでもねえ! お姫さま、どんなに喜んでくれるか知れねえぞ!」
「チェッ!」と、ふたりの兄弟は言いました。
「そりゃあ、どぶから掘り出してきた、泥じゃないか」
「うん、そうさ」と、のろまのハンスは言いました。
「それに、こいつはとびきり上等な泥だよ。
手で持ってるわけにもいかねえからな」こう言って、ポケットに、ぎゅうぎゅう詰め込みました。
しかし、兄さんたちは、できるだけ早く馬を走らせて、一時間も先に町の門のところへ着きました。
見れば、そこにはお姫さまと結婚しようとする人たちが、着いた順に番号札をもらって並んでいました。
一列に六人ずつ、それこそ身動きがとれないくらい、ぎっしりと並んでいるのでした。
けれども、かえってそれでよかったのです。
そうでなければ、だれもかれも先へ行こうとして、お互いに服の背中を引き裂き合っていたかもしれませんからね。
その国のほかの人たちは、みんな御殿のまわりに集まって、窓のほうを見上げていました。
お姫さまが結婚を申し込んできた人たちをどんなふうに迎えるか、それを見物していたのです。
ところが、どうしたことでしょう。
結婚を申し込む人たちは、お部屋の中へ入ったとたん、急に何も話すことができなくなってしまうのです。
「なんの役にも立たないわね」と、お姫さまは言いました。
「お下がり!」
いよいよ、辞書をそらで暗記している兄さんの番になりました。
ところが、長いあいだ列の中に並んでいたものですから、なにもかもきれいさっぱり忘れてしまいました。
それに、床はぎしぎし鳴りますし、天井は鏡のガラスでできているので、自分の姿がさかさまに映って見える始末です。
それから、どの窓のところにも三人の書記とひとりの書記長がいて、ここで話すことを一つ残らず書き取っていました。
そして、すぐにそれが新聞に載って、町かどで二シリングで売られるのです。
まったく、恐ろしいことではありませんか。

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