初級翻訳・サーカスの怪人 第10話

サーカスの怪人

そとからは、三まいの大きなじゅうたんが、かたく巻いてあるように見えますが、中は、人間ひとり、横になれるほどの空洞になっていたのです。
まっ黒な骸骨男は、廊下の壁をつたって、奥のほうへしのびこんでいきます。
食堂の前をとおって、台所へ。
しかし、食堂にいたおおぜいの人はだれも気がつきません。
ああ、ぶきみな骸骨男は、いったい、なにをしようというのでしょう。

消えうせた正一君

その夜の八時。
笠原さんはまだ帰ってきません。
正一君とミヨ子ちゃんは、もう、ベッドにはいりました。
ふたりの部屋のドアの前には、昼間とはべつのサーカス団員が、大きな目をギョロギョロさせて、ゆだんなく見はりをつとめています。
ところが、しばらくすると、ふしぎなことがはじまりました。
団員の大きな目が、だんだん細くなっていくのです。
しまいには、まったく目をつぶってしまって、こっくりと、首が前にかたむきました。
びっくりして、パッと目をひらき、ちょっとのあいだは、しゃんとしていましたが、また、まぶたが合わさって、こっくりとやります。
そんなことを、なんどもくりかえしているうちに、その団員は、とうとう、ぐっすり、寝こんでしまい、イスからずり落ちて、へんなかっこうで、いびきをかきはじめました。
そのとき、一階の食堂でも、おなじようなことが起こっていました。
ふたりの団員が食堂にのこり、見はりの順番がくるのを待ちながら話しをしていたのですが、ふたりとも、いつのまにか、こっくり、こっくりと、いねむりをはじめていたのです。
台所では女中さんが、おさらを洗ってしまって、やれやれと、そこのイスに腰をおろしたかと思うと、これも、こっくり、こっくりです。
家じゅうがみんな寝こんでしまいました。
これは、いったい、どうしたことでしょう? さっき食事のあとで、おとなたちはコーヒーを飲みました。
なんだか、ひどくにがかったようです。
女中さんも、台所で同じコーヒーを飲みました。
ひょっとしたら、なにものかが、コーヒーの中へ、ねむり薬をまぜておいたのではないでしょうか。
いや、なにものかではありません。
もし、そんなことをしたやつがあるとすれば、あのじゅうたんの中から出てきた骸骨男にきまっています。
こちらは、寝室の中の正一君です。
ミヨ子ちゃんは、まだ小さいので、むじゃきに寝いってしまいましたが、正一君は、なんだかこわくて、なかなか眠れません。
このだい、バスの中へあらわれた骸骨男の顔を思いだすと、恐ろしさに、からだがふるえてくるのです。
ドアのそとには、力の強い団員ががんばっていますし、窓には、頑丈な鉄ごうしがついているのですから、あいつが寝室の中へはいってくる心配は、すこしもありませんが、それでもなんだか、こわくてしょうがないのです。
ふと、聞き耳をたてると、こつこつと音がしていました。
ギョッとして、思わず、息をころしました。
こつこつ、こつこつ……。
「おとうさんだよ。ここをあけておくれ。」
ドアのむこうがわなので、なんだか、ちがう人の声のように聞こえました。
でも、こわくてしょうがなかったときですから、おとうさんと聞くと、とび起きてドアにかけより、かぎをまわして、それをひらきました。
用心のために、中からかぎがかけてあったのです。
ドアが、スーッとひらきました。
そして、そこに立っていたのは、おとうさんではなかったのです。ずっと、そのことばかり考えていた、あのやつです。身の毛もよだつ骸骨男です。
正一君は、「アッ!」と叫んで、いきなりベッドのほうへ逃げ出しました。
しかし、相手はおとなです。すぐに後ろから飛びかかって、正一君を力いっぱい抱きすくめてしまいました。正一君は無我夢中で暴れましたが、かなうはずもありません。
骸骨男は、どこからか大きなハンカチのようなものを取り出すと、それを正一君の口と鼻に強く押しつけました。いやな臭いがしたかと思うと、正一君の意識は遠のいていきました。
正一君はすでに目を閉じていましたが、暗いまぶたの裏に、あの気味の悪い骸骨の顔が千倍もの大きさになって、ニヤニヤと笑い浮かんでいます。世界じゅうが、骸骨の巨大な顔でいっぱいになったのです。
正一君がぐったりすると、骸骨男は別の風呂敷のようなものを取り出して正一君に猿ぐつわをはめ、それから用意していた細引きで、手と足を念入りに縛り上げました。同じ部屋のベッドで寝ているミヨ子ちゃんはぐっすり眠っていたので、この騒ぎには少しも気づきませんでした。それほど、骸骨男は手際よく、静かにことを運んだのです。
さっきのコーヒーに眠り薬を混ぜたのは、やっぱり骸骨男でした。廊下では、椅子からずり落ちたサーカス団員が、まだ眠りこけています。一階にいる人たちも同じありさまなのでしょう。骸骨男は、誰に邪魔される心配もなく、思うままのことがやれるわけです。
彼は、縛り上げた正一君を小脇に抱えると、ゆうゆうと階段を降りて玄関の板の間に戻りました。そして、自分が隠れていたじゅうたんの空洞の中へ正一君を入れると、もとのとおりに巻きつけ、紐で縛って解けないようにしました。
それから玄関のドアへ行くと、ポケットから曲がった針金を取り出し、鍵穴に差し込んでしばらくガチャガチャやっていましたが、やがてカチンという音とともに錠が外れ、ドアが開きました。この針金は、泥棒が錠破りに使う道具なのです。骸骨男は外に出るとドアを閉め、また同じ針金を使って外から鍵をかけ、そのままどこかへ立ち去ってしまいました。
笠原さんがサーカスから帰ってきたのは、それから三十分も経ったころでした。玄関のベルを押しましたが、誰もドアを開けてくれません。何度も何度もベルを押しました。それでも何の答えもないのです。笠原さんは心配になってきました。留守の間に骸骨男がやってきて、家じゅうの者を縛って動けなくしたのではないだろうか。そして、正一とミヨ子をどうにかしてしまったのではあるまいか。
そのとき、ふと自分のポケットに合い鍵が入っていることを思い出しました。急いでそれを取り出し、ドアを開けて家の中へ飛び込みました。大声で団員の名を呼びながら、奥のほうへ入っていきます。食堂まで来ると、二人の団員がしょうたいもなく眠っていることがわかりました。台所を覗いてみると、女中さんまで眠っているのです。
二階の子どもたちの部屋が心配です。笠原さんは飛ぶように二階へ駆け上がり、正一君たちの寝室の前へ行ってみると、そこにも見張りの男が床に倒れて寝こんでいるではありませんか。
ドアを開けて寝室に飛び込みました。ミヨ子ちゃんは寝ていました。しかし、正一君のベッドはもぬけの殻です。
「ミヨ子、ミヨ子、起きなさい。にいさんはどこへ行ったのだ?」
ミヨ子ちゃんはびっくりして目を覚ましましたが、さっきのことは何も知らないで寝ていたので、にいさんがどこへ行ったのか答えることができません。それでもお父さんが怖い顔をして怒鳴りつけるので、とうとう泣き出してしまいました。
ミヨ子ちゃんに尋ねてもわからないので、笠原さんは廊下に戻り、倒れているサーカス団員の体を激しく揺さぶって、大声でその名を呼びました。

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