初級翻訳・鉄人Q 第10話

江戸川 乱歩

なんだか床板の上を走っているのです。
もちろん人間ではありません。
小さなやつです。
「あっ、ネズミだ。
さっき誰かに触られたように思ったのは、ネズミが体の上を歩いたのに違いない。」
ポケット小僧は、やっとそこに気がつきました。
古い西洋館ですから、屋根裏にネズミが巣を作っていても不思議はありません。
ネズミとわかるとすっかり安心して、またグウグウと寝こんでしまいました。
このネズミのおかげで、ポケット小僧はあとでここから逃げ出すことができるのですが、その晩はまだそこまでは考えていませんでした。
次に目を覚ましたときは、もう朝でした。
ポケット小僧はよく眠ったので、すっかり元気になっていました。
床にころがったままどうやって逃げ出そうかと考えていますと、ドアが開いて昨日の男が朝ご飯を持ってきてくれました。
男はそのお盆を床に置いて、ポケット小僧のさるぐつわを取り、手足の縄をほどいてくれました。
「さあ、洗面所へ連れて行ってやる。
それから朝飯だよ。」
男はそう言ってニヤニヤと笑いました。

縄抜け術

その部下の男は、昼も夜もご飯を運んでくれました。
そのほかにも時々あらわれて、洗面所へ連れて行ってくれるのでした。
そのたびに縄をほどいてくれますが、男が立ち去るときにはまた厳重に縄をかけていくので、こっそり逃げ出すことなどとてもできるものではありません。しかしポケット小僧は、少しも心配しませんでした。知恵を働かせて、ここから逃げ出す計画をちゃんと考えていたからです。昼間は何事もないような顔をしていましたが、晩ごはんを食べるとき、男がよそ見をしているすきに、一口分のご飯のかたまりを、こっそりと部屋の床に落ちている板切れの下へ隠しました。男はそんなこととは知らず、食事が終わるといつも通り、ポケット小僧の手足を縛り、口にさるぐつわをはめて、そのまま床に転がして下へ降りていってしまいました。

ポケット小僧は転がったまま、じっと夜が更けるのを待っていました。もう夜の八時か九時ごろでしょう。あたりは真っ暗で、シーンと静まり返っています。耳をすますと、コト、コト、コト、コト……と小さな音が聞こえてきました。ネズミです。昨日の夜と同じように、穴からネズミが出てきて暴れているのです。ポケット小僧は、先ほどご飯のかたまりを隠しておいた場所へゴロゴロと転がっていき、あごを使って板切れを取り除くと、縛られた胸をそのご飯のかたまりの上に押しつけて、縄にご飯粒をたっぷりと塗りつけました。そして、床に残ったご飯粒を体で隠して、そこにあおむけになり、じっと横たわっていました。

しばらくそうしていると、またコト、コト、コトと小さな足音がして、ネズミが出てきました。どうやら二匹いるようです。ポケット小僧は息を殺して、死んだように身動きもしません。すると二匹のネズミはご飯の匂いを嗅ぎつけたのか、チョロチョロとポケット小僧の体に近づき、とうとう胸の上へ登ってきたではありませんか。ご飯粒は胸の縄にたっぷりこすりつけてあるので、ネズミはご飯粒だけを食べるわけにはいきません。縄も一緒に噛まなければならないのです。二匹のネズミは、鋭い歯でその縄をポリポリとかみ始めました。

ポケット小僧の作戦は、見事に当たりました。ネズミはとうとう縄を噛み切り、縛られていた両手は自由になったのです。手さえ自由になれば、もうこっちのものです。その手でさるぐつわを外し、足の縄も解いて立ち上がることができました。屋根裏部屋から下へ降りるところには板戸が閉まっていますが、鍵はかかっていません。だからこそ、男はポケット小僧をしっかり縛っておくしかなかったのです。

その板戸をそっと開けて、音を立てないようにハシゴを降りました。そこは三階です。廊下に電灯がついているので、もう迷うことはありません。二階へ、そして一階へと降り、廊下を忍び歩いて鉄人Qのありかを探しました。ドアの上の空気穴から明かりが漏れている部屋がありました。ドアに近づいて耳をすますと、人が動いている気配がします。

ポケット小僧はドアの前にしゃがみ込み、鍵穴から中をのぞいてみました。鍵穴に目をあてると、部屋の中に電灯がついているので、一部がよく見えます。真っ正面に鉄人Qが、こちらを向いて立っていました。おしろいを塗ったような顔、真っ赤な唇、びっくりしたようなまんまるの目。きれいに彩られた鉄の顔です。

「ロボット君、きみは実にうまくできているよ。おなかの中の歯車仕掛けで一人で歩けるし、少しぐらいは口だってきけるんだからねえ」

鉄人Qではなく、別の人がしゃべっているのです。その人の姿は鍵穴からは見えません。Qを作ったあのおじいさんでしょうか。いや、おじいさんにしては声が若いようです。ちらりとその人の肩が見えました。黒い服を着ています。肉が盛り上がった大きな肩です。おじいさんではありません。では、あの部下の男でしょうか。いや、そうでもなさそうです。

「きみのおかげで、おれは世間の目をくらますことができた。まるで魔法使いのように、自由自在に悪いことができるのだ。まったく、きみのおかげだよ。ねえ、ロボット君」

その男の後ろ姿が、半分ほど見えるようになりました。顔の半分が見えていますが、おしろいを塗ったように真っ白です。おや、この男は鉄人Qとそっくりではありませんか。洋服もまったく同じです。ポケット小僧はびっくりして、なおも一生懸命に鍵穴をのぞきました。

しばらくすると、今まで背中を見せていた男が、ヒョイとこちらを向きました。ああ、やっぱりそうでした。何から何までそっくりです。鉄人Qが二人になったのです。つぶらな目、白いのっぺりした顔、真っ赤な唇。まるで鏡に映したように、まったく同じ顔が二つ並んだのです。体の格好もそっくりです。ああ、鉄人Qが二人いる。そしていっぽうのQは、ふつうの人間のように、自由に、ペラペラと、しゃべっているのです。
さっきから、こちらを向いて立っているQの方は、人形のように、じっとしたまま何もいいません。
これはロボットにちがいないのです。
では、もうひとりのQは、いったい何者でしょう。
ひょっとしたら、人間が鉄人にばけているのではないでしょうか。
ポケット小僧は、じっと考えていましたが、やがて、はっと何事か気づいたようすで、ドアの前を離れると、足音をしのばせて、玄関の方へ歩いていきました。
だれにも見つからず、玄関のドアまできました。
押してみますと、まだ、ドアにかぎがかけてないらしく、スーッとあきました。
ポケット小僧は外にとび出すと、近くの商店街へかけだしました。
商店の時計を見るとまだ八時半です。
ポケット小僧は、たばこ屋の店の赤電話にとびついて、明智探偵事務所を呼びだすのでした。
電話口には、小林少年が出ました。
「あっ、小林団長、おれ、ポケット小僧だよ。たいへんなんだ。」
ポケット小僧はそういって、キョロキョロとあたりを見まわしました。
店の人は奥の方にいるし、町を通りかかる人もありません。
それでも、声をグッとひくくして、ゆうべからのことを、てみじかに報告しました。

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